失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『ハンチバック』(市川沙央、2023)

芥川賞受賞のインタビューに感銘を受けて朝の上野駅ですぐさま購入し、朝のうちに読み終えました。面白いというより嫌な気持ちになることが多い小説ですが、好きなタイプの小説でした。自身が言語化できていなかった感情や、体験しえなかった感覚を、読書を通して感じることができる。それを無知で傲慢な「本好き」に提示して、世の中に一石を投じる。作品にも生き様にも感銘を受けた読書体験でした。

読んでいて辛い小説です。到底私が体験したことのない感覚ではありますが、なんかどこかわかる気がする感覚。長くなるので引用するか迷いましたが、下記のシーンが本当に好きで、私自身にもこんなドロドロした言語化できない感情あった気がするんですよね。

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。曲がった首でかろうじて支える思い頭が頭痛を軋ませ、内臓を押しつぶしながら屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との綱引きに負けていく。紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ曲がっていくような気がする。私の背骨が曲がり始めたのは小三の頃だ。私は教室の机に向かっていつも真っ直ぐに背筋を伸ばして座っていた。クラスの3分の1ほどの児童はノートに目をひっつけ、背中を丸めた異様な姿勢で板書を移すのだった。それなのに大学病院のリハビリテーション科でおじさんたちに囲まれながら裸に剥かれた身体に石膏包帯を巻き付けられたのは私だった。姿勢の悪い健常児の背骨はぴくりとも曲がりはしなかった。あの子たちは正しい設計図を内蔵していたからだ。
持ち家の子が殆どいない、いても工務店の子というくらいの地域。晴れた空を戦闘機の音に蓋されてしまう、名前を奪われた基地の街。金色のミニスカートの子。イルカのピアスの子。私に教祖の著書をくれた子。あの子たちがそれほど良い人生に到達できたとは思わないけれど、背骨の曲がらない正しい設計図に則った人生を送っているに違いない。ミスプリントされた設計図しか参照できない私はどうやったらあの子たちみたいになれる?あの子たちのレベルでいい。子どもができて、堕ろして、別れて、くっ付いて、できて、産んで、別れて、くっ付いて、産んで。そういう人生の真似事でいい。
私はあの子たちの背中に追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった

 

私は人より優れているという自意識が先天的な回避できない事象によって折られていく苦しみ、幼少期に人に恥部を見られる想像以上の苦痛、「なんで私だけ?」みたいな感情、優越できないから逸脱していく負の感情。すべて自分にもあったなと、思い出させて気づかされて本当に嫌な気持ちになりました。読書の特権性、自分の気づいていない自分の嫌なところに向き合わせてくれることので、読書は良いなと思うのです。

小学校の友達とかいまみんな何してるんだろうな。元気で居ててほしいな。小学校当時は中学受験したくなかったし、「卒業しても遊ぼうね」って言ったけど、一回も会うことはないまま20年以上経ったな。あんなに仲良くしてたけど、思春期だから何か色々考えすぎて、比べて劣等感を持って、気にして会わなくなったな。たぶん地元の居酒屋とかスナックとか行ったら、たぶん誰かしら居るし会える気もするけど、たぶん会うことはないんだろうな。色々経て人と比べて何かを思うことはなくなったけど、一人でベッドで過ごす人生だったら、私はあの時のドロドロしたまま生きていたんだろうな。

そんな心の奥に沈んだドロドロした思い出をしがむ週末でした。

『飛べない蛙』(金柱聖、2018)

最近はYouTube効果で、脱北者の方のお話を知る機会があり、それきっかけで本を読むことが多いです。その一連で出会った本です。

著者はいわゆる帰国者で、少し前に書いた川崎栄子さんと同様に、日本生まれ日本育ちの在日朝鮮人でしたが、帰国事業に騙されて北朝鮮に渡った方です。祖父とともに北朝鮮に渡りましたが、祖父が朝鮮総連で地位の高い人であったので、北朝鮮のなかでは比較的良い出身成分で、大学まで出て、作家を目指すという経歴を経た方です。脱北していまは韓国にお住まいです。

『暗闇のトンネル』(川崎栄子、2021) - 失われた時を求めて

そもそも北朝鮮における作家というのは、思想の宣伝工作によって革命の最前線に立つ”文芸戦士”であるのです。指導部の思想や北朝鮮文学に詳しい著者の話はどれも知らない新鮮な話で面白かったのですが、一番印象的だったのは、”主体(チュチェ)思想”と”独裁主義”の両立に関する解説でした。

チュチェ思想とは「自分の運命の主人は自分自身であり、その運命を開拓するのも自分自身である」という人間中心の哲学思想である。古来からあった「神」の存在を前提とする観念的世界観とも、物質中心の唯物的世界観とも違う”新たな”世界観として、北朝鮮が独自に”発見した”思想なのだという。

(……中略……)

この理論からすれば、あの国の人たちは自分の運命をすべて自由に動かし、なんでもかんでもやりたい放題にできるはずだが、その現実は、まったく違う。

チュチェ思想」という考え方があることはすでに述べた通りだ。金日成氏はこれに「革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設を推進するのも人民大衆である」と、つけ加えている。つまり、単なる社会主義というだけでなく、その人民の行動は常に南北統一、朝鮮建国のために行うことであるというわけだ。

のちに金日成氏が、これを達成するための具体的な指針として「政治の自主」「経済の自立」「国防の自衛」の3つを打ち出しまとめたのが、「チュチェ思想」改め「金日成主義」である。日本の皆さんにはいまいちピンと来ないだろうが、簡単に言ってしまえば、何をするにも革命を成功させるため、金王朝を支えるための行いをしろ、ということだ。

平等な社会を目指したソ連でも革命を率いるにはエリート独裁になり、エリート独裁は猜疑心を産み、崩壊していきました。私はカール・マルクスになりたかった男でしたが、カール・マルクスの『共産党宣言』には賛成しないというか、若気の至り的な書物なのではないかと思っています。その後私は『資本論』に影響を受けて、大学の歴史学科に進んでしまうわけです。価値について、価値と価値の交換について、そして人間について、なにかを証明し、それを社会に提示して良い方向に変えたかった訳です。結論何もわからなかったので、せめて身の周りの人には良い影響を与え、少しでも生きやすい世の中であってほしいなと願って生きています。

今回の北朝鮮の話もソ連の話に戻ると、膨大な数の人間集団を束ねるということは、人間が扱うには難しいことなのだと思います。せいぜい50名程度のサルの群れ、バンドが巨大な社会を作ってしまうと、誰もが幸せになるのは無理なのです。顔も知らない人のために頑張ったり、気遣いあったりするのは難しいのです。そう考えると、古代のころの粗野な社会よりは、いまのの日本は幸せなのだと思います。指導者の悪口を言っても死刑にならないですし、毎日食べるものに困って死ぬこともないのです。すべての国が不完全で、人間集団を束ねるにあたって欠点があるという点はあれど、北朝鮮は欠点が大きすぎるし、やっぱり滅びるべきだと思います。多くの国民が苦しんでいるという当然の問題もありますが、金正恩や指導者層もやっぱり猜疑心と重圧に苦しんでいるのではないかなとは思うのです。だからあんなに酒を飲んで太り、部下を処刑して、ミサイルで外国を威圧しているのかなと思うのです。金正恩プーチンももう死んでいて影武者で、おこぼれをもらっている連中が、必死に体制を維持しているだけかもしれないですが。ともあれ平和な世の中であってほしいものです。

 

最後に全然関係ないのですが、小さいころ私はカエルが大好きで、NEOという小学館の絵が大きいカエルの図鑑をよく読んでいました。一般の人よりカエルを見分ける力はあると思うのですが、表紙のカエルは見たことのなかったです。アカメアマガエルみたいな見た目でかわいいですね。

『熔ける』(井川意高、2017)

暑さで溶けそうになりながらやYou Tubeを見て、週末の昼間の時間を無為に溶かす。やっと外に出ても良いかなと思える夜、溶かした色々を取り返そうと思って盛り場に繰り出す。お金と記憶を溶かして、また月曜日を迎えるわけです。

You Tubeを見ているときに、街録チャンネルでみてファンになって書籍も購入しました。

"熔ける"

ギャンブルによって身の破滅を招いた元大王製紙会長の井川さんの自伝エッセイです。ギャンブル狂いというイメージは、愚かさと直結するイメージです。しかし井川さんに対しては真反対のインテリジェンスを感じます。東大法学部、ビジネスに対する徹底的に理知的なストイックさ、深く鋭い自己認識、全ての要素が愚かさと対極に位置するように思われます。

仕事のストイックさは文書のいたるところに現れており、数字に対する論理的分析への徹底的な拘り・緻密さは、数々のエピソードに現れているように思えます。製紙業というビジネスは、何百億円の設備投資を伴い回収までに何十年かかるビジネスです。そのために現場や流通網を徹底的に洗い出し一円でもコストをカットする。その一方で利益は数円の世界ですので、一円でも高く売る・一つでも多くの数を売るために、徹底的に考え抜くのです。ただの創業家の息子というだけでなく。連結決算で売上6000億円、利益300億円の企業群を束ねを舵取りしていく、生き様を垣間見た気がします。

その一方での病的なギャンブル狂いですが、強迫気質によるものであると述べています。

企業の経営者として常に強いプレッシャーにさらされながら、物事を突き詰めて考える。絶対に失敗してはならないという強迫観念にとらわれ、いつも緊張にさらされている。仕事が終われば毎晩のように六本木や西麻布の街で酒を飲み、カジノでは身を滅ぼすところまでギャンブルにのめりこんでしまう。

カジノのテーブルについた瞬間、私の脳内には、アドレナリンとドーパミンが噴出する。勝ったときの高揚感もさることながら、負けたときのくやしさと、次の瞬間に湧きたってくる「次は勝ってやる」という闘争心がまた妙な快楽を生む。だから、勝っても負けてもやめられないのだ。地獄の釜が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦げるような感覚がたまらない。このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う。

とても他人事とは思えない内容でした。特にお酒に関する記載は、アルコール依存症気味の私にとってすれば、まさにその通りでいつも「寝るまで飲みたい」と思っています。セーブはできていると自認していますが、普通はその感情しか起きないのかもしれないです。ギャンブルは全く興味がないのですが、それは無責任な雇われの営業マンという仕事で解消されている気がします。ギャンブルとは不確実性に対する人間の根源的な欲求だと思っています。これは『サピエンス全史』や『スマホ脳』・『ドーパミン中毒』などの数年前の話題の図書からの知識で納得した考え方です。

「あっちにいったら新しい食べ物があるのではないか」

「あの茂みがガサガサしていて怖いけど、エサとなる動物が出るのではないか」

そんな多動的・集中力散漫的な本能が連続強化されて、またエサが出るのではないかというパチンコ実験のサルのように、出るか出ないかという依存につながっていくのかなと思います。ともあれ本源的には”不確実性への焦がれ”が、人間にはあるのではないかなと思うのです。そう考えたときに営業というのは不確実性の集合体で、電話を掛けたら罵倒されるかもしれないしアポが入るかもしれない、アポが入ったけど何か面白い案件が出るかもしれないし仕事にならないかもしれない、こういった不確実性への根源的な楽しさに対して、仮説を立てて実行して上手くいったりいかなかったりするのが、何より楽しいのです。恋愛も一緒ですが、ギャンブル狂い的な”不確実性への焦がれ”に加えて、何より”人の感情”というものに興味があるし、好きなんだと思います。お金を増やすより、人の満足度や感謝・好意といったものにアプローチしコントロールするのが好きなのかなと思います。昔は「趣味は営業」と半分ネタで話していましたが、最近思うのは「趣味はラポール形成」なんじゃないかなと思います。書いてて気持ちの悪い人間だなと思うのですが、この趣味おかげでギャンブルで身を破滅することなく居られているので良しとしましょう。

【関連記事など】

『スマホ脳』(アンデシュ・ハクセン、2019) - 失われた時を求めて

『ドーパミン中毒』(アンナ・レンブケ、2022) - 失われた時を求めて

パブロフの犬・サルを完全に破壊する実験 | パチンコ依存症解決センター

本の話に戻ると、井川さんは大王製紙の会長解任・逮捕ののち、友情の大切さを学んだと語っていたのが印象的でした。

大王製紙創業者の祖父・伊勢吉は、一度会社を倒産させて苦労した。かつて祖父がよく語っていた言葉がある。

「10人の味方をつくるよりも1人の敵をつくるな」
それはそのとおりだろう。味方は困ったときには助けてくれる。自分のもとへ駆けつけてくれる。自分のもとへ駆けつけてくれる。敵は四六時中足を引っ張ろうとする。 1人の敵をつくらないことが重要なのだ。 そして、敵をつくらないようにする努力は味方を増やすことにもなるのだ。私のまわりには、これまでの人生でつながりを深めた人々がいる。そうした人たちと一緒に、第二の人生を歩めばいい。
そして何より、最後に助けてくれるのはやはり友人だ。 そのことを私は今回の事件でしみじみと感じた。

確かに私も保険屋での経験を経て同じようなことを思いました。人の信用がすべてだ。そんな素朴な気づきではありますが、何か大きな失敗をしたり大きなものを失った人は、シンプルで大切なことに目が行くのかもしれないです。

関係する全ての人が生きやすい世の中にする

そんな2023年のテーマをもとに、頑張って生きて「いこうと思います。

『堕落論』(坂口安吾、1946) - 失われた時を求めて

 

 

『武士道』(新渡戸稲造、1899)

私の中学生のころのバイブルに再会しまして、久しぶりに手に取りました。

『武士道』(新渡戸稲造矢内原忠雄訳、岩波文庫青118-1、2011年)

いまはちょうどジブリの「君たちはどう生きるか」が上映されて世の中をにぎわせていますが、まさに10年前15歳の私は「どう生きるべきか?」に悩んでいて、とりあえず岩波文庫の青と三島由紀夫の小説でない書き物を読み漁っていました。

1869年明治維新、そこから30年後のフィラデルフィアにて西洋哲学や宗教・騎士道との比較研究として出された本書です。世界において日本のことが知られていない、あるいは偏見に満ちて理解されていることに対して、日本人に共有される精神性を紐解いて示すことを目的とした書籍でした。

武士道から学ぶことは、知行合一、知は行動を伴わなければ意味がないということです。知識とは道徳的感情に従属するものであり、そしてその道徳と知識を行動によって実践することのみを求める倫理体系であるということです。

武士道(シヴァリー)はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史の腊葉集中に保存せられているのではない、それはなお今我々の間における力と美の活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態をとらないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとに自覚せしめる。それを生み育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。

武士道の淵源

知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現れる時においてこそ真に知識となる

知識そのものは道徳的感情に従属するものと考えられた。

私は若いときからこういった行動至上主義の考え方に感化されたり、歴史の英雄や若い経営者が、無鉄砲に選択し行動しているような生き様に感化され、何かを思いついて判断を迫られたときには「まずやってみよう」という行動規範を自らに課していたように思います。特に新社会人のころくらいまではずっと思っていたのは、「選択肢がある場合、いまの自分にとって最も困難に感じられるような選択をする」というようなルールというか脅迫観念がありました。運動が嫌いだけどラグビー部に入った中一の自分、シャイで不器用だけど居酒屋バイトや不動産・保険営業に挑戦した自分、そんな逆消去法で生きてきた人生でした。その選択はいま思うと良い選択であったなと思っていて、その時点で迷うということは、きっと「こんな自分を変えたい」とか「こんな自分になりたい」という迷いに苛まれているなかでの迷いであるので、いまの自分の価値観に基づいて判断するのでなく、将来の自分から見てベストな選択をするような習慣づけになっていたのかなと思います。

そして色々な人生経験を経て、また本書を読みなおして少し思うのは、こういったストイック的習慣の前提として、倫理観・信念・知識といった「社会や自分はどうあるべきか?」という軸がないといけないなという反省です。最後に私の読書メモを載せますが、本当に良いことがたくさん書いてあって、モチベーションが上がり頑張る元気がわいてきました。考え方自体に感銘を受けるという面も大きいのですが、明治維新から30年後、海外から「野蛮なハラキリ文化」としてステレオタイプ化されていた徳川政権下で生きた武士階級の人間たちの生き方の源流を紐解いて、海外で出版したという熱意や思いにも心打たれます。そもそもいつから「日本人」という自意識が形成されたかということに興味があり、新渡戸が用いる「日本人」という言葉が海外の人からわかりやすい単語として用いたものであるのか、明治維新30年後には皆が海外のことを知り「日本人」という自意識をもっていたのかという視点もごちゃごちゃ出てきます。ともあれ2023年に生きる我々「武士」という生き方を簡潔にわかりやすく示してくれるのは最高ですし、私のようにモチベートされて高まり感銘を受ける人間もいるのです。

「武士道と云うは死ぬことと見つけたり

葉隠』の一説ですが、昔は文字通り「生きるということは死ぬことだ」という無鉄砲の美学がありましたが、いまは色々な経験を経て「どう生きるかというのは、どう死ぬかということだ」という考え方に変わりました。それを再確認できる貴重な読書体験でした。

 

【読書メモ】

義は武士の掟中最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振る舞いほど忌むべきものはない。

義理=単純明瞭なる義務=「正義の道理」としての絶対的命令

勇気は、義のために行われるのでなければ、徳の中に数えられるにはほとんど値しない。

…生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の勇とはいうなり

…勇気が人の魂に宿れる姿は、平静すなわち心の落ち着きとして現れる。平静は静止的状態における勇気である。

…実に勇と名誉とは等しく、平時において友たるに値する者のみを、戦時における敵として持つべきことを要求する。勇がこの高さに達したとき、それは仁に近づく。

愛、寛容、愛情、同情、憐憫は古来最高の徳として、すなわち人の霊魂の属性中最も高きものとして認められた。

・他人の感情に対する同情的思いやりの外に現れたるものである。また正当なる事物に対する正当なる尊敬、したがって社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する。何となれば社会的地位は何ら金権的差別を表すものではなく、本来はじっさいの価値に基づく差別であったからである。

・礼儀はたとい挙動に優美を与えるに過ぎずとしても、大いに裨益するところがある。しかるにその職能はこれに止まらない。礼儀は仁愛と謙遜の動機より発し、他人に対するやさしき感情によって動くものであるから、常に同情の優美なる表現である。礼の吾人に要求するところは、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことである。かかる教訓的要求が日常生活の些細なる点に及ぶときは、ほとんど人の注意を惹かざる小さき行為として現れる。

信実と誠実なくしては、礼儀は茶番であり芝居である。

克己

一方において勇の鍛錬は呟かずして忍耐することを明記せしめ、他方において礼の教訓は我々自身の悲哀もしくは苦痛を露すことにより他人の快楽もしくは安寧を害せざるよう要求する。この両者が相合してストイック的心性を産み、遂に外見的ストイック主義の国民的性格を形成した。

→武士が感情を面に現はすは男らしくないと考えられた。最も自然的なる愛情も抑制せられた。

→日本人は人性の弱さが最も厳しき試練に会いたる時、常に笑顔を作る傾きがある。けだし我が国民の笑いは最もしばしば、逆境によってみだされし時心の平衡を恢復せんとする努力を隠す膜である。それは悲しみもしくは怒りの平衡錘である。

 

 

 

『僕は「脱北」YouTuber』①(キム・ヨセフ、2022)

私は街録chとかの影響で、最近北朝鮮の話や脱北YouTuberの話をよく観ています。そのなかでキム・ヨセフさんという方のYouTubeがめちゃ好きで、本も読ませていただきました。

5人兄弟の7人家族で父以外の全員が餓死、18の頃に父が生きていることを知り一度目の脱北を試み失敗。苦しい留置所暮らしを経て解放され、5年後の23歳に脱獄します。その後は韓国で働き、日本に来て大学へ通い、いまは就職してサラリーマンをしながら、"脱北"YouTuberとして北朝鮮のリアルやヨセフさんの考えを発信しています。

【キム・ヨセフさんのYouTubeチャンネル】

https://youtube.com/@yosehu-kim

私は動画を見始めてから大ファンで、生き方を勉強させてもらっていると思うし、一生懸命に人生を大切に生きようと刺激をもらっています。泰然としてすべてを受け入れ、そのうえで貫くべきことは貫き、社会がより良い方向に向かうよう発信していく。そして愛する家族や助けてくれる友人・仲間のために動く。人間としてピュアで美しい生き様に心打たれるのです。

僕は北朝鮮の政権を悪く言うつもりもなく、ただ自分の経験を伝えたいだけです。 何かを恐れて言葉を失うのなら、この世界に生きる意味がどこにあるのでしょうか。もちろんリスクはありますが、人はいずれ死ぬのだし、死ぬときはそれまでだ、と思っています。

脱北後、学歴も地縁もない社会で生き残るために、僕が大事にしていることが2つある。

その1つが、「信用を守ること」だ。何も持たない僕は、自分がどんな人間で、どんなことができるかということをアピールしなければならないが、その中で一番大事なのが信頼関係だと思っている。約束は必ず守る。言行不一致は許されない。やってあげると言ったのに、できない人にはなりたくない。

もう1つは、「受けた恩は必ず返すこと」。韓国では社会に適応するまで、多くの人に助けてもらった。彼らからしたら、友達として親切にした 程度の認識かもしれないが、僕にとっては恩人だ。それは日本でも同じで、ちょっとした心遣いや何気 ないひと言で救われたことが何度もあった。今でもずっと恩を感じている。 僕はいろんな人と仲良くできるタイプではないけれど、助けてくれた人は大事にする。

この2つは、僕が脱北後に改めて得た大きな学びだ。 一方、北朝鮮社会で学んだことのほとんどは、 今では役に立たない(苛酷な環境で生きるための強さや根性は役に立っているが)。

「苦難の行軍」時代には、馬鹿正直にお上の言うとおりにした人間から先に死んでいった。そんな経験 から、北朝鮮社会では、どんな手段を使ってでも生き延びることが正義という価値観がまかり通っていた。法よりも力に価値があるとされ、権力者となって弱者を搾取し賄賂を得て裕福に生きることに皆、 れている。他人の口の中の飴でも奪って飲み込む、そんな社会なのだ。

私の信念としてどんな人間でも、心の奥底には人を想う気持ちがあると信じています。そのうえでわかり合うえるかというと、色々な欲や世俗のしがらみ・認知能力や共感能力の程度などの要素によって阻害され、現実問題は難しい場面があるかと思います。

生命保険の仕事をしているときにそんな考えにいたったのですが、どんな合理的で冷血にみえる経営者やがめつく自分のことしか考えてないようにみえる人間でも、1つずつ考えを整理し、まとっている欲や世間体などの仮面を剥がしていくと、そんなピュアな心根を掴めると確信しています。だから私は人と良い関係を築くには、仮面をお互いに剥いでいくプロセスが大事だと思っていて、心根のピュアな愛や生き方の軸を共有すれば、絶対に良い関係が築けると信じています。そうすると相手の反応を気にするという考えにはならないので、「あなたのその選択は本当に正しいですか?」「その発言は良くないと思いますよ」という強い意見を臆せず言えるのです。それは相手に何か恥をかかせてやろうとか私に何かメリットがあるからという次元の会話ではなく、相手を尊重したうえで、お互いが目指す未来のために、どうやって良い選択・より良い生き方をするかという次元の話なのです。

私も最近疲れて心と生き方がザラザラになっていますので、休んで頑張っていこうと思います。

もう一個思い出してきて、書きたい話があるのですが、長くなってきてしまったので、またの機会にします。