失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『金色夜叉』(尾崎紅葉、1898)

私が一番好きな小説で、この本との出会いは私の人生をかなり変えている気がします。

尾崎紅葉の長編小説で、読売新聞で連載されていた恋愛小説です。お宮は貫一の許嫁であり、貫一は両親のいない孤独の身にして、お宮の家に幼い頃からお世話になっている身である。そんななか銀行の頭取の息子とお宮が結婚するということとなります。全てを失った貫一は、熱海でお宮を蹴り飛ばし、お宮の両親が引いてくれた大学や留学の切符も破り捨て、全てを捨てて高利貸になります。その後、高利貸となった貫一と嫁いだ宮の両軸でストーリーが進行していきます。結論、宮は貫一を、貫一は宮を、感情として切り捨てて前に進むことができずに、憎しみと愛情と交錯していくというストーリーです。連載中に尾崎紅葉は亡くなり、未完に終わってしまっているのですが、構想メモでは宮が亡くなったあと、心を殺して高利貸になっていた貫一は義のためにお金を使い切るまさに『金色夜叉』となるとされています。

本当にいくらでも話したい小説なんですが、文体が華美でありかつ七五調のリズムで整えられているので、オペラをみているようにリアリティを持って迫ってくるものがあります。愛憎入り交じる微細な感情と、置かれる状況や心情に翻弄され上手く噛み合わない行動と、本当に美しい小説です。

特に「車は馳せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易らざる其の悒鬱を抱きて、遣る方無き五時間の独に倦み憊れつゝ、始て西那須野の駅に下車せり」という文章が有名なんですが、この前のシーンが本当に好きです。貫一の愛憎入り交じる感情が生み出す悪夢のシーンなのですが、本当に迫るものがあります。

 

この本に出会ったのは高校2年生の頃だったと記憶しているんですが、小説としての面白さ・美しさに感動すると共に、かなり私自身の人生を引きずり込んだ気がします。

私はその頃、青春の激情に飲まれており、世間の言葉で言うと中二病全盛期でした。徐々に寛解しながら最近ようやく治ったというところですが、当時は自分の感情の奔流があるなかで、どう処理したらいいかわからず、外に答えを求め小説以外にも、哲学や心理学から物理学の本まで読み漁っていました。

金色夜叉』については、私の「ドラマチックに生きて、死にたい」という心を大いに刺激していました。私はずっと「27歳で死ぬ」という確信と、「人間の行動は功利主義的な変数を全て解析できれば証明できる」という仮説に基づいて生きてきました。どちらもまた別の機会で書こうと思うのですが、ジミ・ヘンドリックスにような芸術的な天才性と、カール・マルクスのように人間の行動を論理を用いて説明する学問的な天才性を渇望していました。ともかくそんな確信と仮説に基づいて生きてきたなかで、貫一のように感情の繊細さを兼ね備えつつ、葛藤を乗り越え、破滅的に生き死にしたいと、『金色夜叉』を読んで思ったものです。

 

私は大学の頃、好きな女性に『金色夜叉』を渡したというかなり激イタな黒歴史があります。その後6-7年経ってそんな過去をほとんど忘れた頃、保険屋になって再会し、「本当に高利貸になったのね」と言われたことを思い出します。清少納言のようなソフィストケーテッドな美しさと、「難しい文章で頑張って必死で読んだんだから」という少女的な可愛さに、また捕まってしまったなと思ったものです。このあたりの感情はブログに載せるよそ行きの文章にまとめるほど、キレイに処理はできていないんですが、このあたりの経験は、封印してきた文学少年カネコにきっちり向き合って乗り越えていかないとなと思ったきっかけになります。ブログを始めたきっかけでもあります。社会不適合者である私は、本当にいろんな人に迷惑をかけながら、なんとか生きてきたんだなと色々な場面で気付かされます。感情の繊細さや美しいものを感じる心は忘れずに、元気で健康に生きて、恩返ししていきたいなと思います。