失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『ウメ子』(阿川佐和子、2002)

この本には割と最近に出会った気がします。保険の仕事をしているときに上司が「阿川佐和子を知っているか、彼女のヒヤリング力は本当にすごいから聞いたほうがいい」と言っており、帰り道の古書店で”阿川佐和子”コーナーで目を引いた本として『ウメ子』を手に取りました。

主人公の幼稚園児の女の子が主人公で、ウメ子という姉御肌で不思議な魅力のある少女と出会い、ウメ子との様々なエピソードから生い立ちに迫るというストーリーです。家族だけが全てという世界から、幼稚園という自分と同世代の人が集められた場所に放り込まれ、今まで会ったことのない人と出会い、成長し価値観に影響を与える。人生ステージが変わる毎に味わう感覚ですが、それを初めて味わうときのことを、思い出させてくれる小説です。

 

しかしそんなことを思いながら、あとがきで著者の阿川佐和子について触れている箇所を読むうちに、一番強烈に思い返された記憶は、高校生の朝の記憶でした。高校生の頃、土日の部活に行く前にTVで「サワコの朝」というテレビを観ていたことを思い出しました。

 

当時のカネコは同世代にしては珍しい、スマホを持たないteenagerを過ごしておりました。中学生の私は、スマホを持たないが故に時間を持て余し本を読む。或いは、心理的な壁にぶつかる度に答えを探しに本を読み、内なる自分と対話を重ねる。小学生の頃から読書好きであったものの、中学生の終盤頃には文学少年として完全にキマった状態にあったように思います。そんな中学生を経て、高校生になると部活動が忙しくなり、ラグビーにしごかれにしごかれる生活を送るようになります。中学性の頃からラグビーをやってはいたものの、そこまで辛いと感じたことはありませんでした。しかし高校のラグビーは別世界で、青年の身体つきをした猛者と本気のコンタクトをし、身体を限界まで苛め抜くような環境となります。一方で勉強面も別世界に変わりました。中学時代は全く勉強していないでも済んだものの、勉強をしないとそもそも進級できない厳しい環境となります。肉体的な疲労が蓄積され、頭も限界まで酷使する。体力を持て余すことのなく、時間の遊びもない生活となりました。幸いカネコという男は、かなりイタイ人間であったので、カール・マルクスになるための”研究”に取り掛かる時間も必要で、いわゆる暇潰しと呼ばれる行為はそんなに必要ありませんでした。しかし、完全に社会から置いて行かれるわけにはいけないなという感覚も残ってはいたので、スマホは持たなくとも、偶にはテレビくらいは観たいなという欲求はありました。そんななかで、リアルタイムで社会の情報を得る手段というのは二つに限られており一つはiPod nanoで聴けるPodcastラジオであり、もう一つは朝のニュースやTV番組でした。朝は7時45分には家を出ますし、夜は部活を終え22時頃に塾から帰ると、疲れ果てて寝るのみです。時間と場所を選ばないPodcastは関係ないですが、テレビというと家に居る朝の時間しか観られないものでした。そんな当時に平日のニュース以外に観ていた記憶があるのは三種類の番組で、土曜日は「はやく起きた朝は…」「ボクらの時代」、日曜日は「サワコの朝」でした。日曜日というと、ラグビーの試合が組まれているケースが多く、遠くまで電車でいかねばならないことも多い日です。いつもより早く朝ごはんを食べ、試合という戦場に向かう心構えをしていると、阿川佐和子さんがテレビに出てきて話はじめます。アイスブレイクとゲストの紹介が終わる頃には、もう家を出る時間になるのですが、家族が誰も起きていない朝に阿川佐和子さんに送り出されるような気持ちで、試合に向かっていたようなことを思い出しました。

 

そんな私も大学生となり、一人暮らしとアルバイトを始めてから、やや反社会性が薄れていきます。一人暮らしのなかで、主婦的な要素を兼ね備えていき、”ていねいなくらし”への憧れが芽生え、ESSEやVOGUEを読むような方向性に傾いていきます。今思うと、阿川佐和子さん、そして「はやく起きた朝は…」の松居直美さん・森尾由美さん・磯野貴理子さんの影響が多いにあったように思います。

 

幼少期の記憶と重ね合わせながら読んだ小説ですが、そんな忘れかけていた高校生の記憶を呼び起こしました。26歳になった現在でも、社会という”戦場”へ毎日赴くわけですが、一方で”ていねいなくらし”も全うしていきたいと思っています。朝くらい”ていねい”に暮らそうと、一杯の水・一枚のトースト・一本のヤクルトを摂取します。そんな時間も終わると、阿川佐和子さんのように送り出してくれる人はいませんが、今日もなんとか”戦場”へ向かいます。