失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『幸福な王子』(オスカー・ワイルド、1888)

昔から好きな小説で、確か小学校が幼稚園の頃に童話聞いた気もします。中高生になって文学少年的な気質が増すなかで読み返すと、また違った感覚を覚えました。そして大人になって読むとまた違った思考に至る。そんな不思議な小説です。

 

本作は童話で、"幸福な王子"とつばめの彫像との物語です。

生前の王子は、宮廷から出ることなく、何不自由せず"幸福"に生きて亡くなり、"幸福な王子"として国の象徴となります。しかし彫像となった王子は、貧困に喘ぐ市民の様子を初めて知ることとなりました。そんな市民に対して心を痛め、涙を流します。

つばめは冬を越しにエジプトに旅へ出ます。その旅路のなかで夜を過ごすべく、ある街を訪れ、ある彫像の下で眠りに就こうとします。そこで王子の涙のしずくに起こされ、二人は出会います。

王子は市民の不幸を和らげたいと願い、動けない自分に代わり、つばめに市民を助けてもらうよう、依頼をします。自分を装飾するサファイアの瞳や身体を覆う金箔を、市民に届けてほしいとつばめを遣わし、市民を助ける。そのようなことを続けるうちに、つばめは寒空の下で、市民を助けることに幸福を感じ、目を失った王子にずっと付き従うことを決意します。そうするうちに、あたりはもうすっかり冬で、つばめは冬を越せず亡くなります。すっかり装飾はなくなりていますみすぼらしくなってしまった王子の彫像も、後を追うように鉛でできた心臓が真っ二つに割れ絶命します。

 

改めてこの本を読み返すと、ただひたすらに尖っていた18-20歳くらいの頃を思い出します。演劇は好きだけど演劇人にもならずに、ただバイトをして得たお金を酒に変え、授業にはいかずに本を読むか寝ていたあの頃です。

幼いころにこの話を聞いたときは、なんて悲しい話なんだと思った記憶があります。自己犠牲を伴う愛で、二人とも絶命してしまう。救われた街の人々はみなを救った彼らのことを知る間もなく、忘れて幸せな生活を送る。救いのない話というか、とにかくつばめが寒い中飛ぶ姿が悲しかった記憶でした。一般的なやさしさを持ち合わせた少年でした。ただ中高生でスレてきて大学で尖りのピークを迎えた私がこの話を読み返すと、また違った感覚を持ちました。両者の献身さというより、誰からも理解されないことに対する美しさのようなものを感じた記憶があります。王子とつばめで閉じられた世界、人に物を与えるという”良いこと”をするものの、誰からも認識されずついにはゴミ捨て場に打ち捨てられる。

「誰からも理解され愛されないが、限られたその人には理解され愛される。」

自分は世間の馬鹿な連中に理解はされないし関わる必要はなく、今の社会から取り残され躓いているような状況は、無限の未来の”可能性”に向けてしゃがんでいるのである。そしていつかは誰かに理解され愛される。そんな現実逃避や都合の良い願望に支配された私には、王子とつばめだけの世界で完結する美しい話に見えたのです。

 

世間に対して愛を持って向き合うものの、理解されずに石を投げられ、最後は人類の罪を背負って死ぬ。そんな彼にも、ただ一人マグダラのマリアだけは最後まで付き添ってくれる。そんな世界に恋焦がれていたのです。

 

王子もつばめも愛されることも理解されることも望んでいないな。いま読むと、そんなところに目がいきました。それが愛なんだなと、薄味でありきたりな感想だと思うんですが、そんなことを思いました。

 

心が丸くなると同時に、目つきも身体つきも丸くなってしまいましたが、今日より明日が良い日になるように、ちゃんと社会に参画し世間に働きかけていこうと思います。