失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『斜陽』(太宰治、1947)

太宰治の代表作の一つで、戦後の華族の没落を描いた作品です。当主を失った文京区西片町の一家、戦地から帰らない生死不明の長男、姉である長女、母。戦後で生活資金がなく、伊豆に越す。叔父からの支援もアテにできないなかで、生きていた弟が家に戻る。稼いで生活を切り盛りするような力は低く、華族としてのプライドは高い、或いは戦後の華族というペルソナから生じる疎外感によって、生き辛さ。姉と弟と、手紙や独白によってそれぞれの内面が吐露されるところが多く、細かい心理描写をまとめると、本編より長くなるので控えます。

青空文庫で無料で読めて、長さもそこまで長くないので是非。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1565.html

 

本作との出会いは大学生の頃で、当時好きな女性にもらった本です。『金色夜叉』のアンサーだったのかもしれないです。

proust-masayuki.hatenablog.jp

 

 

私は当時この本が好きでなくて、あまりちゃんと読めていなかったというか、当時思った感情と今読んだ感情は全く異なると感じます。当時の思想としては、太宰治的な生き様が本当に嫌いで、

「お前本当に必死でやったのか?悲劇を回避するあらゆる手段を尽くしたのか?」

「それは人事を尽くして天命を待った結果の悲劇なのか?」

自分にも他者にも求めていたように感じます。

 

https://proust-masayuki.hatenablog.jp/entry/2022/05/14/070000proust-masayuki.hatenablog.jp

「自分だけが人生に躓きながら、繊細さによって苦しんでる。そんな他人の様が私は本当に嫌いでした。悲劇とは、悲劇を回避しうるあらゆる手を打って、なお悲劇となってしまうのが美しいのであって、自分から火に飛び込むような真似はみっともないと思っていたのです。」

 

かず子、かず子の母、直治。全員が世間から爪弾きにされている感覚を持つものの、そもそも世間に適合する気はハナからなく、緩やかな自死というか破滅を待つのみに見える。自分で選んだ破滅の道なのに、泰然と構えるわけでもなく、あたかも追い込まれ死んでいくように思える。死にたいと言いながら、死なないようにパンを食う。そんな人間に見えたのです。

 

いま読み返すと、もっとこの小説に通底する"生き辛さ"に寄り添って理解できたように思います。

火垂るの墓』に対する感情の変化に近いと思っていまして、を子供の頃に観ると、清太とおばさんが対立し、世間から疎外されていくことに純粋に同情する、涙すると思います。ただちょっと大人びた子供になると、もっと清太は上手く立ち回れただろうという責める感情が出てきます。正常性バイアスというのが正しいかわかりませんが、最適な合理的な行動を取っているように見えなくて、名誉やプライドといった"無意味"なものに影響されて生理的な充足を自ら放棄しているように見えたのです。

 

そして20代後半を迎えたいま、『斜陽』を読み返したのと、この前『火垂るの墓』を観たときと近い感情をいだいたように思います。

あんまり上手く言えないですが、人間は感情の生き物だし、承認されないと生存できないんだろうなと最近思います。当時の私の功利主義的な損得勘定の認知が、上記のような解釈を引き起こしたのだなと思いました。

『斜陽』でいうと、戦後を迎え華族という立場を奪われ、収入も絶たれ、生活していく力もない。頼っていた叔父からの援助も絶え、精神的な支えの母も重い病気である。そんななかで、かず子は売れない病気の小説家を頼って子を残し、直治はドラッグと観念的な世界に閉じこもり死を選ぶ。ただこの小説でもお母さんだけは違って、華族としての洗練された気品を最期まで持ち続け、振る舞いや言動は貧乏する前と一つも変わらず、変わらずかず子と直治を愛し続ける存在です。本作のお母さんのように自分で完結して自分を認めることって難しくて、他者が居ないと自分であることはかなり困難なのかなと思います。

 

私は全ての人が生きやすい世の中にであってほしいなと、ずっと思っていますが、生きにくいまま尖って生きていくのも生き様で、私はそんな生き辛い人たちの助けになる存在になりたいなと思ってて、彼らが気を緩めて馬鹿できる場所を作りたいなと思います。