失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『家族喰いー尼崎連続変死事件の真相ー』(小野一光、2013)

半年前位に何となく手に取り読んだ本なんですが、高槻の保険金殺人のニュースを見て、パラパラとめくりながら色々と考える今日この頃でございます。

尼崎の事件は、当時本当に衝撃的で、主犯の角田が留置所内で自死したことで、真相は闇に包まれたままの事件として記憶していました。本書を通して全体像がぼんやりと見えてきたというか、関係する人がどのように行動し、何を感じたのか、赤裸々に描かれていたように思います。

犯罪心理学シリアルキラーの話題というものは、ある種のエンターテインメントとして消費され、ある人は犯罪者と”普通の人”との異質性を主張し、ある人は同一性を発見する。こういったストーリー立てがないと、人は人を理解しえないから難しいところがあるなというのは頭では納得するものの、私はどちらにも与したくないと思うところがあります。大学の文学部に進んだとき、「言葉にならないものを言葉にするのが、人文学であり、人文学徒の使命だ」と教わりました。ニュースやネット記事によって、おおざっぱな切り口で加害者や被害者を切り分けて分類し、「人間とはこういう弱さがある」だとか「こうした人間を生み出さない社会にしよう」と安易にメディアに載せて主張するのは余り気持ちのいいものと思わないところがあります。私自身もそんなことを全くしないようにできない人間でもないし、むしろ進んでやってしまうこともある人間ですが。

 

高槻の事件にしろ、尼崎の事件にしろ、加害者にも被害者にも「どうしてそんなことするの?」「どうしてそういう風に考えるの?」と声をかけ、自分にもその問を向け続けることでもっと平和な世界になるんじゃないのかなとも思うのです。

 

保険屋時代にAM2時までテレアポしていた彼女や、不動産営業で同じリストに毎日電話をかけてた彼、色々と壊れてしまった知人を思い出すんだけれど、そこでなんで声をかけてやれなかったのかなと、心につかえてたまに思い出します。

「どうしてそんなことするの?」

というのは迷惑だからやめろとか、壊れるからやめろとかそういう話でなく、どんな目的や意志をもってそんなことをしているのか、自分でも見失ったまま、相手とのずれが大きくなるだけで、みんなが不幸になってしまうなと思うのです。

「自分が求めているものは何なんのか?」

意外と一番難しい問で、これのずれというか自分らしさのようなものからズレる行動をとり続けることで、人生の上手くいかなさというものが蓄積し、その不幸が伝播してしまうのかなと思うのです。

 

私は誰もがが生きやすい世の中であってほしいと思うので、せめて周りの人、私が関係できる人に対しては、おせっかいに声をかけようと改めて思いました。

高槻の事件と尼崎の事件を思い出し、人文学徒の熱を帯びた一日でした。