失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ、2006)

2017年にカズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞した際に読んだ本で、最近マンガの『約束のネバーランド』を読み、思い出して実家で読み返しました。

 

このブログは読書ブログではないですし、ネタバレが嫌なタイプのSF小説ですので、内容は触れないですが、テーマとしてはタイトルの通り、人間の承認欲求というか、誰かに認めてほしいという心情について、特殊な状況下の様々な登場人物の相関関係や会えない誰かに対する感情などから、切り込んでくような小説でした。

私は見た目のポップさから世間ではひょうきんものと認識されていると思っていたのですが、この前「あなたは闇キャラだ」とか「あいつの性根は捻じれている」というような趣旨の声を聴きまして、ブログ以外では秘匿できていると思っていた性根の部分は世間に伝わっているのだなと気づきました。これを受けてネガティブというより、ポジティブというと違いますが、自分の内面と外面の捻じれがなくなったなというか、そこまで良く見られたいという欲求がなくなったなと感じました。自分らしさというとちょっと開き直りのようですが、authenticなLifeになってきたなと安心感を持ったのです。

 

2017年、高校2年生の頃にこの小説を読んだときは、中二病というか愛されたさがピークで、種々の歪みをラグビーと哲学でより捩じっていた頃なので、「わたしを離さないで」という小説のタイトルと内容にかなり感銘を受けました。

そして大学・社会人と色々あって、そんな「わたしを離さないで」カネコは去った気がするのです。

 

言語化難しいですが、相手に期待しないとも違うし、相手に期待される自分を目指さないとも違うし。期待すると愛するの分離が近いのかな。メリット・デメリットや経済的・心理的な便益と、愛するということを一緒に認識してしまった歪みが、分離してそんなに考えなくなったというのが近い気がします。

自分でその変化に気付かなかったのですが、飲み屋でのカネコ評を他者から聞くなかで、気付かされたのが近いです。

 

”a friend in need is a friend indeed”とは言ったものですが、常日頃から有事に備えてひとはひとを試したがる不安症があるのかもしれないです。

私はいつでもどこでもなんでも付き合いし、「離せ」という言葉を聴いても食らいついて離さないくらいのしつこさと厚かましさはあると思っています。

 

ジュビリーエースのマルチ商法の仮想通貨詐欺の借金で自殺してしまった大学生がいましたが、あんな事件を聴くとやるせなくなります。あなたはあなたである価値とお金の価値というのは、ValueとPriceの違いで交換できるものでもないし、お金で解決できる問題はなんとかなるものです。

 

私の知り合いに対して、マルチにハマって距離をおいたとか、新興宗教にハマって距離を置いてしまったとか、似たような後悔がいくつかありますが、今にして思うと生きているので幸せです。今後は何かあるまえに、面倒事でも首を突っ込んで、厚かましく離さないのが、私自身にとって後悔がないし幸せなのかなとも考えました。

日本一のおせっかい野郎になろうかなと思うこの頃です。