失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『蹴りたい背中』(綿矢りさ、2003)

中学生くらいのときに読み、心にこびりついて印象に残っていた本です。自分が繊細だと思っている語り手の”長谷川”、彼女が学校内の人間関係としての世間を斜に見たり、同種の人間というか同じく馴染めていない”にな川”。そんな二人と学校という世界を中心に物語は進んでいきます。

確かこの小説は中学入試か中学のテキストで出会った記憶なんですが、長谷川のような感覚を持っている人間は私だけだと思っていたので、それを小説として仕立てあげられて衆人の目に晒されているようで、すごく嫌な気持ちというか、恥ずかしい気持ちというか、そんな気持ちになったのを覚えております。

さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締め付けるから、せめて周りには聞こえないように、私の指はプリントを指で千切る。

 

改めて読むと、文章がきれいだなと思う小説で、時間の進行・景色(目線)の変化・動作・心理の動きとが全てが連動したうえで、「この感覚わかるし、言語化できていなかったけど、こういうことなんだよな」というのを気付かせてくれました。

にな川は振り返って、自分の背中の後ろにあった、うすく埃の積もっている細く黒い窓枠を不思議そうに指でなぞり、それから、その段の上に置かれている私の足を、少し見た。親指から小指へとなだらかに短くなっていく足指の、小さな爪を、見ている。気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、はく息が震えた。

私はあまり本を読み返さない方なんですが、『蹴りたい背中』はたまに手に取りたい本で、とくに上に引用した最後の文章は読み返したいなと思い、心に刻まれました。

 

この本を読んで考えたのは、他者に対する感情というのは、合理性や打算によって生じるものではなく、本能だよなというのを改めて思うのです。それを一度、合理性の世界によって振り返って分解して理解しようと努めるのだけど、そこで得られるのは説明できないという答えだけ。”長谷川”の”にな川”に対する感情を、理性のフィルターを通して解釈すると、気持ち悪い行動に対する嫌悪感や、あるいは自分と同じ疎外されている者に対する同情や仲間意識、あるいは彼に対してだけは優位性をとれることへの満足感のようなものに分類されるかと思いますし、”長谷川”自身はそのように理解していたのかなと思います。しかし実際に本能に基づいて繰り出される動作は、血のにじむ乾いた唇にキスをしたり、背中をそっと蹴ったり。これをまた説明的な理性の世界に引き戻すと、愛と暴力性の倒錯みたいな少年A評のようなしょうもない話になる気はしますが。

 

最近思うことで、すこし乱暴ですが、人が人の感情や行動の理由を説明するのってすごく無意味なんじゃないかなと思うのです。世の中が少し理性的すぎるというか、こんまりメソッドではないですが、興奮することとワクワクする選択肢を選ぶと決めると、世の中シンプルで生きやすい気がするのです。

最近、私は人に自分の気持ちを伝えるとき、説明的でないように努めています。そうすると「月が綺麗ですね」的なハイコンテクスト会話になってしまい、後追いでその意図を解説する羽目になります。「あなたと二人きりの空間に緊張感を感じながら、なんとか適切な話題を見つけようと努めましたが思い浮かばず、あなたは空の月を眺め何を考えているのかなと思いながら、月光に照らされるあなたに見とれながら、『月が綺麗ですね』という言葉で沈黙を破りました」そんな野暮な注釈をつけることになるのです。

 

結局、「言わないとわからない」。人は説明しないとわからないものですね。