失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『日曜日の人々』(高橋弘希、2017)

昔から図書館や古本屋が好きで、地元のBOOKOFFでタイトルと表紙に惹かれ何となく手に取り出会いました。

タイトルと表紙からの予想に反して、やや重ための小説でした。精神と肉体(行為)の分離というか、精神的なストレスから肉体に干渉する自傷や拒食といった行為を描く作品や事例を聴くことはあると思うのですが、そんな文脈でした。あまり好きではないタイプで、血や肉といったグロテスクな描写に対する生理的な嫌悪感と美しさの間を反復横跳びするような感情で読み進めておりました。

 

あまり体系だって理解できていないけれど、生と死の狭間というものに美しさを感じるというか、身体が極限につかれていると頭の中でカノンが流れてくるような感覚はなんとなく自分の中にあって、本作のような感覚もわからんでもない気がして。もっと雑なくくりだと、『マッチ売りの少女』や『フランダースの犬』の最期のような感覚というか。

 

一時期、脳について調べることにハマっていて、どうやったら自分の脳を騙してカネコという人間を限界まで動かすことができるか考えたことがあって。きっとそれはエンドルフィンやアドレナリン・ドーパミンといった脳内物質を意図的に出そうとおもったことがありました。それは半ば簡単で、長い距離を走らなければならない走り込みの練習や、短期間で仕事や資格の合格をまとめなければならないときや、脳を騙すことは簡単なのかなと思います。

 

何が言いたいのかというと、きっと死にそうになると、脳が少しでも負担を和らげるために頑張ってくれるのが、こういった人類の死への羨望というかなんとなく同意できる共感覚の元なのかなと思います。

 

気持ちの悪い読後感に耐えて少し考えていると、こんな味気のないことを思い出して考えることになって、今日も眠りにつくのです。