失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『人生論』(トルストイ、原卓也訳、1975)

戦争と平和』で有名なトルストイのエッセイというか論考で、たまたまBOOKOFFで見つけて手にとりました。ロシア文学の古い訳本を買うとだいたい原卓也訳のものに出会うことになるけれど、やっぱり難解でした。それでも読み進めていくと、ちょうど考えてたことに対して整理がついたりで、充実した時間となりました。

本書はロシアで1986-1987年ごろにトルストイが小論文や講義で話した論考を整理したもので、ロシア文学らしく写本がアンダーグラウンドで流通していく形で広まったそうです。

本書では「生存(スーシチェストヴォヴァーニエ)」と「生命(ジーズニ)」を区別して論じていてます。「生存」とは、人間の一生を誕生から死までの時間的・空間的な存在として捉えて、その期間における動物的幸福の達成を一生の目的と考える生き方です。対して「生命」とは時間的・空間的に区切りなく永遠に続く世界の一生であり、その間は自己の動物的個我を理性的意識に従属させて生きることを指します。「生命」とは、難しいですが、全世界人類の幸福を、自らの幸福に一致させるような考えです。自己という枠を越え、かつ時間的な制約も超えて、一致させていくのです。

そのうえで、人間の幸福或いは苦悩・死への恐怖というものは「生存」を人生目的にしていることから生じ、愛とは動物的な個我よりも理性を以て世界の「生命」を大切にすることによって生じるものであるといったことを論じていきます。

 

私は高校生の頃、本当にこのロシア・ソビエト的な暗いキリスト教的な世界が好きだったなというのを思い出して、初めてカラマーゾフの兄弟の大審問官の章を読んだときを思い出していました。ロシアの共産圏の世界の歪んだやさしさと暗黒な世界が好きだなと思いました。

 

理不尽に耐える処方箋としての宗教だけど、みんな生きていくためには奇蹟を求めるし、まずはパンが食べたい。でも奇蹟は起こらないし、世界はかわらない。その矛盾を乗り越えるために、哲学や文学や色々な芸術が発達したのかなと思うのです。

 

なぜ宗教が生まれたのかなって昔よく考えてまして、「意味あるのかな」とか「むしろ争い増やしているだけだよな」みたいなはじめに至る考えを経て、最終的には理不尽を乗り越えるために必要な人間の祈りなんじゃないかなと考えてます。

 

現代の社会はパンにありふれているけれど、何か不足しているみたいな議論はよくなされるじゃないですか。その結果大きく3つの派閥に分かれると思ってて、仏教的な「足るを知ろうよ」派、プロ倫的な「やりたいこと見つけて本気でやろうよ」派、ニヒルで厭世的に「どんな手段を使っても、個人の幸福度や楽しさを最大化しようよ」派になるのかなと思ってます。

 

私は誰もが生きやすい世の中であってほしいと常々思うのですが、一方でこんな筋立てがないと心の平安を保てない文学部的な自らの感性が、生きにくさを生み出しているのかなとも思うのです。普通の人が無意識に人生を歩く中で乗り越えているハードルも、助走をつけてジャンプしないと超えられないような。

 

いまでもなんとか”無限性の絶望”と”有限性の絶望”と、”可能性の絶望”と”必然性の絶望”との間で、均衡を保って生きていますが、久しぶりに私の人生を変えた一冊の『死に至る病』を読みたくなりました。

哲学者モードの週末でした。