失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『春の雪(豊饒の海 第一巻)』(三島由紀夫、1969)

冬になると内省的なモードに入っていきまして、2023年を目前に2023年/27歳をどう過ごすかを考え、人に話して、整理するという作業を始めています。
20代をどう過ごすかを考えるなかで、「27歳で人生が終わるかもしれないな」という昔から抱いている感覚が昔からあって、その一端を担っているこの作品を思い出し、手に取った次第です。

三島由紀夫の自決前の遺作となった長編小説『豊饒の海』の第一部です。
明治の終わり頃が舞台で、松枝清顕という侯爵家の嫡子が主人公、学習院の同級生で友人の本多、伯爵家の綾倉聡子が中心人物です。清顕の自意識と恋と、そして死と輪廻転生の物語です。
何回も読んでいるのでどの書籍のあとがきで知ったか忘れましたが、『浜松中納言物語』という平安後期の物語から輪廻転生の着想を得たということと、マルセル・プルースト失われた時を求めて』のような文学の方法論を提示すること自体を芸術とするような文学人生の集大成としたいといったこと、そんな背景があり制作されたそうです。
中三のときに始めて三島由紀夫を読んだのが『金閣寺』で、文章を読んで鳥肌が立つというか文学として楽しむという原体験だった気がします。その次に読んだのが『豊饒の海』で、私の思想に大きく影響を与えた本の一つです。文章の美しさもそうですが、人は何のために生き死ぬのか、これを読んだ時期はより深く考えていたように思います。中三の時に読むのとまた全く違ったところで感情を動かされたり、気付かされるところがあるなと感じるところで、自分がなんとなく感じていたけれど言語化できていなかった感覚を、東大法学部のソリッドで華美な文章で提示されると、営業で習ったような「論理を用いて感情に訴える」とはこういう感覚なんだなと思ったりする次第です。

当時は輪廻転生の物語の第一部の恋物語として本作を楽しんでいた気がしますが、いま読むとどう生きるかみたいな側面で色々と考えることがありました。
何度かブログで書いた気がしますが、論理の無力さといったものを最近は思うことが多くて、純粋に感情で生きることの効用というか、そんなことを考えていました。その元となる考えというか発芽する前の種はどこにあったかというと、下記に引用するシーンに合ったと気づかされました。
本多が意志の無力さ、歴史に関係しようとすることの無力さを語るシーンがまさにそこで、少し長いですがかいつまみながら引用しようと思います。

13話より(新聞連載のため、全体が51話で構成されています)
「貴様は感情の世界だけに生きている。人から見れば変わっているし、貴様自身も自分の個性に忠実に生きていると思っているだろう。しかし貴様の個性を証明するものは何もない。……(中略)……もしかすると貴様の感情の世界そのものが、時代の様式の一番純粋な形を表しているかもしれないんだ。……でも、それを証明するものも亦一つもない。」(本多)
「じゃあ何が証明するんだ」(清顕)
「時だ。時だけだよ。時の経過が、貴様や俺を概括し、自分たちは気付かずにいる時代の共通性を残酷に引っ張り出し……(中略)……一緒くたにしてしまうんだ。……」(本多)
……(中略)……
「それじゃ僕らが何を考え、何を願い、何を感じていても歴史はそれによってちっとも動かされないと云うんだね」(清顕)
「そうだよ。ナポレオンの意志が歴史を動かしたという風に、すぐ西洋人は考えたがる。貴様の爺さんたちの意志が、明治維新をつくり出したという風に。しかし果たしてそうだろうか?歴史は一度でも人間の意志通りに動いただろうか?貴様を見ていて、いつも俺はそんな風に考えてしまうんだ。貴様は偉人でもなければ天才でもないだろう。でもすごい特色がある。貴様には意志というものが、まるっきり欠けているんだ。そしてそういう貴様と歴史の関係を考えると、俺はいつでも一通りでない興味を感じるんだよ」(本多)
……(中略)……
「俺が思うには、歴史には意志がなく、俺の意志とは全く関係がない。……(中略)……俺にはそんなことはよくわかっている。わかっているけれど俺は貴様とは違って、意志の人間であることをやめられないんだ。……(中略)……しかし、永い目で見れば、あらゆる人間の意志は挫折する。思うとおりには行かないのが人間の常だ。そういうとき、西洋人はどう考えるか?『俺の意志は意志であり、失敗は偶然だ』と考える。偶然とはあらゆる因果律の排除であり、自由意志がみとめることができる唯一つの非合目的性なのだ。
だからね、西洋の意志哲学は『偶然』をみとめずしては成立たない。偶然とは意志の最後の逃げ場所であり、賭けの勝敗であり、……これなくしては西洋人は、意志の再々の挫折と失敗を説明することができない。その偶然、その賭けこそが、西洋の神の本質なんだと俺は思うな。意志哲学の最後の逃げ場が偶然としての神ならば、同時にそのような神だけが、人間の意志を鼓舞するようにできている。
しかしもし偶然というものが一切否定されたらどうだろう。どんな勝利やどんな失敗にも、偶然の働く余地が一切なかったと考えられるとしたらどうだろう。そうしたら自由意志の逃げ場はなくなってしまう。偶然の存在しないところでは、意志は自分の体を支えて立っている支柱をなくしてしまう。
こんな場面を考えてみたらいい。
そこは白昼の広場で、意志は一人で立っている。彼は自分一人の力で立っているかのように装っているし、また自分自身そんな風に錯覚している。日はふりそそぎ、木も草もなく、その巨大な広場に、彼が持っているのは彼自身の影だけだ。
そのとき雲一つない空のどこかから轟くような声がする。
『偶然は死んだ。偶然というものはないのだ。意志よ、これからお前は永久に自己弁護を失うだろう』
その声をきくと同時に意志の体が頽れはじめ融け始める。肉が腐れて落ち、みるみる骨が露わになり、透明な漿液が流れ出して、その骨さえ柔らかく融けはじめる。意志はしっかと両足で大地を踏みしめているけれど、そんな努力は何にもならないのだ
白光に充たされた空が、恐ろしい音を立てて割け、必然の神の顔を、見るも恐ろしい、忌まわしいものにしか思いえがくことができない。それはきっと俺の意志的性格の弱みなんだ。しかし偶然が一つもないとすれば、意志も無意味になり、歴史は因果律の大きな隠見する鎖に生えた鉄銹にすぎなくなり、歴史に関与するものは、ただ一つ、輝かしい、永遠不変の、美しい粒子のような無意志の作用になり、人間存在の意味はそこにしかなくなる筈だ。
貴様がそれを知っている筈がない。貴様がそんな哲学を信じている筈はない。おそらく貴様は自分の美貌と、変わりやすい感情と、個性と、性格というよりはむしろ無性格を、ぼんやりと信じているだけなんだ。そうだろう?」(本多)

これを読んで思うのは、私は人生計画がなく、27歳くらいで死ぬのかなとずっと思っていました。
どういう理屈でそう考えたかというと結論は第六感ではあるんですが、母や親族がみんな若くして亡くなっていたり、天才は早死にするという27クラブの話を聴いたり、まあ色々なことからそんなことを思うようになりました。なので文学部に進学してカールマルクスになろうとしたときも、個人事業主で保険の仕事を始めたときも、そんなに深い考えがあった訳ではなくて、切り取った一瞬一瞬の幸福度を最大化させたいという無意志と、短いデッドラインのなかで何か成し遂げたい・何者かになりたいという焦りで、普通の人よりは濃い人生というといいすぎですが、限られた時間を精一杯生きないとなという感情が行動に表れていたのかなと思います。
いまそんな無意志の惰性と焦って駆けてきた余力で26年生きてきましたが、そろそろ人生を描きなおさないといけないなと2022年になってから常々思うのです。

本多がいうように、私の意志が何か影響を与える訳ではないんだけど、意志の人間であることは辞められない。だから意志が影響するくらい限定された小さな世界の王になるべく、人一倍仕事に打ち込んでみたり、特定のグループで誰かの役に立っている実感が欲しかったり、親に認められようとしたり、そんな事に打ち込んでいくのです。
しかしあるときふと理性の無力さ・意志の無意味さにつまされて、感情に素直に生きようと、そんな風に思うんだけど、どんなときに自分が楽しいのか嫌なのか、それを観測する力というものは長年の忍耐や理性的な緩和アプローチ(世間では意志力とか言ったりするのかもしれないけど)によって鈍っていて、不感症になっていることに気付くのです。学校や会社、あるいは世間的な常識は、意志力を以てして短期~中期で何かを成すことを求めてベンチマークを設定しているから、それを適度に乗り越えていけば、ある種は楽しいというか不足はない人生なのかもしれないです。
でもやっぱりどこか足りないというか乾いている感じがして、感情に素直に生きるような、意志なく激しい情動に突き動かされるような、そんな生き方に魅惑されるのです。意志力というものは無力で、この世の本質を理解したり、究極に美しいものを創造する行為からは遠ざかるような要素なのかなとは薄々思います。しかし27歳より先の長い人生を、何をしても歴史には関与できないとニヒルに腹を決めて、理性的な意志ではなく感情のみに依拠して過ごすことはどうもできないのです。よく人は”自分探し”と言いますが、それは理性的なアプローチで人生を捉えるなかで、薄々意志の無力さを感じているなかで行われる行為なのかと思うのです。自分がいままで自由意志で選択していたものが限られた選択肢を選ばされたに過ぎなくて、本当にやりたいことという感情に基づいた選択を探しに行くのですが見つからない。自分探しで自分が見つかるというのは、自分の意志が影響している様を観測でき、それを嬉しく思えるような感情の動きがある、そんな限定された領域・小さな世界を見つけることができたというような事象をさしているのかと思うのです。
本多が別の場所でそんなことを考えるシーンがあるのですが、まさにそんな思考の袋小路に閉じ込められてしまいました。

29話より
雨のまま明るくなった空は、雲は一部分だけが切れて、なお降り続く雨を、つかのまの狐雨に変えていた。窓ガラスの雨滴を一せいにかがやかす光りが、幻のようにさした。
本多は自分の理性がいつもそのような光りであることを望んだが、熱い闇にいつも惹かれがちな心性をも、捨てることはできなかった。しかしその熱い闇はただ魅惑だった。ほかの何ものでもない、魅惑だった。清顕も魅惑だった。そしてこの生を奥底の方からゆるがす魅惑は、実は必ず、生ではなく、運命につながっていた。

51話より
苦しみに歪んだその(=清顕)顔は美しかった。……(中略)……彼(=本多)は今しがた見た清顕の苦しみの表情を、何かこの世の極みで、見てはならないものを見た歓喜の表情ではなかったかと疑った。それを見てしまった友に対する嫉妬が、微妙な羞恥と自責のなかににじんできた。本多は自分の頭を軽く揺った。悲しみが頭を痺れさせてしまって、次々と、自分にもわからない感情を、蚕の糸のように繰り出すのが不安になった。

毎年末のどこかで一日ほど時間を取って、誰にも会わずに、そもそも自分はどうなりたくて、そのためにこの一年はどうあって、来年一年はどうすごすか、そんなことを考えます。
いまの段階での私の結論は、私は人に好かれたい人間だから、「私と関係する全てのひとが生きやすい世の中であってほしい」というものですが、それは今回の文脈の言葉で整理すると下記のようになります。
論理的な意志としては「私と関係する」範囲に限定して影響を与えられるよう選択を行い、私の感情の振れ幅を大きくするという生き方です。間接的で迂遠なアプローチをすることによって、感情に正直な生き方がある程度できているかもしれないです。陥穽があるとしたら、「私は人に好かれたい人間だから」という前段なのかなと思います。その方法以外の感情の振れ幅については、無視している状況です。
今年は八丈島に行こうと思っていて、行けたら青ヶ島まで行って、遠い海を眺めながら色々考える時間を取ろうと思います。今日も今日とて、自分探しの旅に出るのです。