失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『残酷人生論』(池田晶子、2010)

かつて池田晶子さんの本をおすすめしていただいたので、何を読もうか迷ううちにタイトルが一番インパクトを与えてくれた『残酷人生論』にしました。

哲学の著書で、雑誌連載をまとめた形の本でした。連載の総集編として著者の哲学を知るという体裁だったので、印象に残るところにフォーカスして、楽しく読むことができました。

一番印象的だったのが、”わかる”と”愛”の関係についてです。”わかる”=”愛”という関係で、咀嚼しきれていないので、引用をかいつまんだメモをコピペします。

わかるには、意思は関係ない。わかろうはない。
しかし、わかろうという意志、他人への想像力がなければわからない。愛がない人にはわからない

愛のない人が、わかっている以上のことをわかることはありえない。なぜなら最初から、わかる気がないからである。
わかる気がない人に、なぜわかるわけがあるか。愛していないものを、なぜわかる気になるか。

歳を取らなきゃわからない
君にはなんにもわかっていない
自らする線引の非論理性と狡さとを私は憎んだ。それでどうしてほしいのよ。
なら、世の中の皆が皆
君は私でないからわからない
と言い合ってごらん
わかる力は愛である。得てして人は気づいていない。真の知力とは、愛する力であるということを。

"わかる"という言葉の解像度は人それぞれで、相手の気持ちというものは、100%理解することはできない。だってそもそも刻一刻と変化する自分の気持ちですら100%理解することはできなくて、他者の気持ちであればなおさらわからないなと思うのです。この前読んだホーキング博士量子力学の話の量子状態のイメージかもしれないけれど、刻一刻と変化する気持ちを知るには、自分或いは他者を観察し、言葉というツールを使って深いところのことを知りにいかないといけない。対話しているうちに、その人自身が自分の気持ちを理解してくると同時に変化していくのです。

かつて保険の営業をやっているときに、すごいセールスマンが「相手のことをただ純粋に聴きなさい、いつか"コツン"と音がするからそこまで聴けてないんだよ」と言っていました。ずっと意味があんまり分からなかったのですが、最近分かった気がしてます。"コツン"と音がするまで相手のことをわかり、同時にわかられると、会ったばかりの人でも何十年来の付き合いがあるかのようになって。これが相手を愛することで、同時に自分しか知らない相手の魅力に気づけた自分をも愛せる。そんな感覚がなんとなくありましたが、『残酷人生論』を読んで、言語化されたなと感じます。

哲学とか宗教或いは信条といった心の支えとなるようなフレームワークや自分が世界に相対する態度、こういったものの必要性についてときどき考えます。わざわざ自分や人間があるべき姿や態度というものを議論したり、学び咀嚼し自分のものとしていくことは、ただ生きるには必要ないのかもしれません。でもやっぱり生きていると大変なことも多々あって、納得できないことや理不尽に相対したときに、それを乗り越えるために必要な人もいるのです。

ただ生きているだけでお腹の減るし、なにかと理不尽で大変なことも起こる世界だけど、なんとか乗り越えて今日も生きていくのです。