最近は小説を読めない気持ちだったんですが、暇になったのと、気分がBADに入っている関係で、今日はずーっと本を読んでいました。本当にヒマな大学生みたいな暮らしで、井の頭公園で暑くなりすぎなくなる時間まで本を読んで、コンビニで買ったおにぎりを食べて、なんだか吉祥寺に引っ越したくなって部屋の内覧に行って、そのまま申込書を書いて、昼寝をして、夕方に一件だけWeb会議をして、定時に電車に乗ってまた本を読んで、本当に退屈で幸せな一日でした。
そんな今日考えたことは追って書くにせよ、良い小説との出会いでした。
舞台は、「自由死」が合法化された近未来の日本。最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子は、「自由死」を望んだ母の、<本心>を探ろうとする。
母の友人だった女性、かつて交際関係にあった老作家…。それらの人たちから語られる、まったく知らなかった母のもう一つの顔。
さらには、母が自分に隠していた衝撃の事実を知る――
こんな話ですが、やはりミステリー要素であるストーリーが気になるという魅力以上に、日々一瞬感じては忘却してしまうような刹那に抱いた感情や頭の中で繰り広げられる深く抽象的な議論を明確に言葉にしてくれて思い出させてくれることに魅力があるように思うのです。
実際、母は僕に、よく「優しい」と言った。優しさとは、しばしば奇妙な、理解を絶した何かなのだった。損得勘定からも、理知的な判断からも逸脱した不合理な何か。
彼女の生きている物語が、鮮烈に感じられました。だから、惹かれたんです。――(中略)――そして僕は、あなたのお母さんに、現実を変えるために、もっと努力しなさいとは言えませんでした。これが人が人と向かい合った時の、決して抽象的でない感情です。――(中略)――僕は、あなたのお母さんとの関係を通じて、自分は優しくなるべきだと、本心から思ったんです。
こんな言葉を反芻しながら、自分がよく”優しい”と言われることと、そこに対する欺瞞を見出すような感情が、少し整理がついたように思えました。
そもそも最近の自分の感情を思い返すと、BADに入ってた経緯は仕事が原因で、営業という仕事でちょっと嫌なことが多かった気がします。なんか今月は重たい交渉事が多くて、”優しい”顔をして人の心の中に踏み入り、決断を迫るシーンが多かったです。世の中では”優しさ”を以てして信頼関係を築くと言うのかもしれないですし、築かれた信頼関係からなされる決断というのは、未来から振り替えるとその人自身にとっても良い決断になったというケースも多いですが、なんかやっぱり商談の場にいると、決断するその人と同程度に私自身も心を削られてしまう感覚があります。決断をするような空気になる商談の場というのは、良く表現すると情の空間に入れるというか、落語の芝浜みたいな空間になるんですが、悪い点では自分自身の心も全部持っていかれるというか、自分の気持ちが落語家もとい落語家の憑依する”魚屋の勝”と同じような感情に入りこんでしまう感覚があります。店を廃業するとか、代々受け継いできた土地について売買の意思決定をするとか、そんなシーンを短期間で多量に摂取したことによって、非常に心が疲れました。これが全営業マンや全人類に共通するのかはわからないですが、私は影響されやすいというか、普段はある種冷たいというか俯瞰して場がどうなるみたいなことを考えながら会話するタイプではありますが、スーパー情の空間モード・芝浜モードになると、影響されやすいというか、彼我の区別がなくなってしまうから疲れるのかもしれないです。自分自身の感情の変化をこうやって冷静に見つめると、商談のはじめの段階は”優しさ”というのは嘘っぱちで、決断を迫るクロージングの材料を集めたいという気持ちと、純粋に気になるから聞いていることが多いんですが、そういった決断のシーンになるとその共感能力の高さというのは、きれいな言葉でいうと”優しさ”というのかもしれないです。言い換えると、ただ影響されやすいだけという”不合理な何か”であると思うのです。
ともあれそんなBADは、井の頭公園での読書を通して寛解され、「決断を迫る人間は、決断が早くないといけないな」という謎のスイッチが入り、引っ越しを決めました。商売人として運気のいい町である吉祥寺に居ることは良いなという感覚で決めました。
本当に良い小説で、ネタバレがあるのもよくないかなと思って書かないですが、最後の日比谷公園脇の商業施設3階のレストラン(おそらくミッドタウン日比谷かな)での回想シーンは素晴らしく、『金色夜叉』の列車のシーンや『失われた時を求めて』の馬車のシーンのようで、通常であったら知覚しないような自然の微細な変動をとらえ、そこから過去の回想と未来への予測が無限に広がっていく様が素晴らしいです。私の上記推し2作品と共に是非読んでほしい作品です。
それにしても、現在を生きながら、同時に過去を生きることはこれほど甘美なのだろうか。
現在を生きながら、同時に未来を生きることもまた、甘美であってくれるならば、と僕は思った
『本心』を読んでいるうちは、私の母親の話とかも思い出して暗い気持ちになりましたし、そのことを書きたいなという感情でした。しかし最後のシーンを見て心が浄化されて、今日の話になりました。読書の最中はずっと過去の文学少年カネコというか、芝浜でいうと勝として憑依されてたのですが、最後のシーンを摂取した瞬間に、2024年現在のカネコに戻れて、勝から談志に戻れたみたいな感じです。
僕たちが、何でもない日々の生活に耐えられるのは、それを語って聞かせる相手がいるからだった。 もし言葉にされることがなければ、この世界は、一瞬毎に失われるに任せて、あまりにも儚い。それを経験した僕たち自身も。──
ブログという機能は、私がなんでもない日々の生活に耐える手段なのかもしれないです。BADから救ってくれるのは、読書とブログ或いは酒と友人ですね。明日からも楽しくやっていこうと思う一日でした。