失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『十字架』(重松清、2009)

この本との出会いは小学生の頃、教材で使われてたものと記憶しています。中学受験の勉強をしていたのですが、重松清はよく教材に使われていた気がします。

 

中学校のいじめと自殺をテーマとした小説で、いじめを苦に自殺したフジシュンと、遺書に書かれた4人とその周りを取り巻く人物の今後を描いた作品です。その4人とは、"親友"ユウ、いじめの主犯の三島と根本、好意を抱いていた中川さんです。いじめを知りながら見殺しにした罪悪感を抱えたユウとサユが、どう感じ、人生の歩みを進めていくかという軸で話が進んでいきます。

この話を聞くと思い出すのは、小学校の頃の記憶で、心の奥底にこびりついているように感じます。私が小学校5年生くらいだったと思うんですが、学童保育でよく一緒に遊んでいる子がいました。頭がツンツンしたボーちゃんみたいな3年生の男の子で、何人かのグループで、一本橋でじゃんけんをする遊びをやったり、どろけいをやったりしていた気がします。そんな日常のなかで、朝のニュースでその子が亡くなったと知りました。お母さんの無理心中未遂で、その子だけ亡くなったと報道されていました。朝に12チャンネルのおはスタをみせてくれなかった家は金子家くらいだったので、周りでそんな話も聞かないですし、誰か似てる人のニュースで勘違いだろうと思い始めたくらいです。そんななか給食前に体育館に全校生徒が集められ、朝のニュースで聞いたのと同じ内容を聞かされました。報道陣に話を聞かれても答えないようにとも聞かされました。勘違いではなく本当にあったことなんだと自覚したなかで、悲しくもあまり動揺していない自分に嫌な気がしたのを思い出しました。人の死というものは幾度か経験していくなかで、急に友人が亡くなったにも関わらず、テレビの向こう側の出来事のように感じてしまった自分に恐ろしくなりました。あいつがどんなやつで、どんなことを考えていたのか、何か悩んでいなかったのか、なんでもっと興味を持ってやれなかったんだろう。そんなことを思い出しました。

 

時が進み、読み返して印象に残っていたのは、大学生の頃のシーンです。ライターの田原が、大学生になったユウの家にあがり、話をするシーンです。ユウは罪悪感から逃れるように、肩寄せあってサユと付き合って同棲しているんですが、そんな生活感を感じる部屋の冷蔵庫を田原は勝手に開けて「ビールの買置きなんて、生意気だな」というようなこと言うシーンです。なんでかわからないのですが、とても印象に残っていて、自分が大学生になって冷蔵庫を手に入れて初めてやったことは、ビールを6缶で買って冷蔵庫に置くことだったと思い出しました。私には共犯関係のような友人はいなかったけれど、寂しさを埋め合わせるように毎日遅くまでバイトして、金麦を飲んで、そんな日々でした。

 

風化していく記憶や感情がどこか不安で、自伝的ブログを今日も残しているのかもしれないです。

 

『西の魔女が死んだ』(梨木香歩、1994)

久しぶりに読みました。小学生か中学生の頃、教材で使われてたものから興味を持って、図書館で借りて読んだ記憶があります。26歳になって読むと、当時の記憶や感情が思い起こされるということに加え、いま向き合っている課題に対しての処方箋として機能する側面もあり、ともかく染みるなと感じた次第です。

幼い子どもの頃、得も言われぬ孤独感を感じることってあることを思い出しました。

「心臓をギューとわしづかみされているような、エレベーターでどこまでも落ちていくような痛みを伴う孤独感を感じる。そういうときは、ただひたすらそれが通り過ぎていくのを待つしかないのだ。」(P.37)

そんな一節から、祖父の思い出が蘇りました。

幼稚園の頃、両国のおじいちゃん家に弟と泊まりました。寝室は2階にある畳の部屋で、真鍮の虎の像が置かれています。そんな部屋で夜に起きてしまいました。夜は涼しい8月の終わり頃だったと思います。寝室からトイレに行くには、柘榴のなる広いベランダを横目に廊下を通って隣の建築事務所の建物までいくか、漆加工と荘厳な細工を施した手すりのある階段を降りて1階まで行かねばなりません。襖を開いておばあちゃんを起こしても良かったのですが、それにはまず虎を横切らねばなりません。そんなことを考えると、天井や欄間の美しい細工すら恐ろしくなってきますし、廊下の床板が軋む音なんか聞いてしまったからには堪りません。そこまで考えを巡らすと、朝まで寝てやり過ごすしかないのですが、なかなか眠れません。「なんでこんなところに来てしまったんだろう。」おばあちゃんと水上バスに乗って隅田川を探索したり、おじいちゃんと東京ドームに野球を観に行った楽しい思い出は消え去る。耐えきれない孤独をなんとかやり過ごすには、なるべく外の空間に身体を出さぬよう、布団の端を折り込んで身体の下に隠し、耐えるしかないのです。そんなこんなでなんとか眠りにつくと、朝6時前におじいちゃんが1階のリビングで、ニュースをつけている音が聞こえてくるので、急いで階段を降りて、まずはトイレに行くのです。「良く眠れたか」と聞かれるので、「うん」と答え、よくわからないニュースを一緒に観たり、持ってきた図鑑を読んでいたように思います。

西の魔女に似て、おじいちゃんは背がとても高く鼻が大きく、少し日本人離れした風貌だったように思います。そのうえで、せっかちでちゃきちゃきの江戸っ子でした。いま思うと、あまり感情をストレートに伝えるのがうまいタイプではありませんでした。祖母、娘である私の母、義理の息子である私の父と、よく言い争っていたように思えます。そんな祖父でしたが、かけがえのないものをたくさん教えてもらったように感じます。祖父はいつも不器用で素直でない言葉を発します。基本何かに怒っていたり不満を口にしていた気がするのですが、一方で愛の深い人でした。ことあるごとに「元気か?」といつも声をかけてくれていたことを思い出します。私の父もそうなんですが、あの「元気か?」というのは、不器用ながら様々な感情や意味が込められているなと、社会に出て色々な大人と接するうちに分かってきた気がします。様々な人生の重みを背負った、愛の深い言葉だなと感じます。

そんな祖父に、最期に会ったのは19歳の春で、一緒に近くの蕎麦屋に行きました。昼は相席で、職人さんが蕎麦やカツ丼をかっこむ戦場のようなお店なのですが、14時頃になると緩やかな下町の時間が流れます。相撲かなにかのラジオが流れる中、客はまばら。そこで私はカツ丼を食べ、祖父は一杯飲む。きゅうりの浅漬に醤油と七味をかけ、お酒はお湯割りに梅干しをいれたもの。大学に入ったばかりで、お酒もまだ飲んだことがないくらい。そんなきゅうりの浅漬の食べ方は理解できませんでしたし、梅干しの入った飲み物が何かもよくわかりませんでした。そんな蕎麦屋の帰り道、「お前と飲めるのが楽しみだな」と言っていました。数ヶ月後、祖父は心不全で亡くなりました。

お酒を飲むとき、お酒の種類に対応する過去の経験を強烈に思い出します。きゅうりの浅漬あるいは焼酎のお湯割りと梅干しの組み合わせは、祖父を思い出すのです。泥とセメントと草の混じったような隅田川の匂い、白粉と椿油の匂い、両国の思い出はそんな香りに包まれています。私はおじいちゃんとおじいちゃんのいる両国が大好きです。

 

いつも人が死んでしまったあと、伝えたかった言葉を思い出します。『西の魔女が死んだ』はそんなやりきれない感情に寄り添い、未来に向かって明るく乗り越える力を与えてくれる作品だと思います。

西の魔女が死んだ

西の魔女が死んだ

  • サチ・パーカー
Amazon

 


『劇場』(又吉直樹、2017)

これも何年か前に流行った小説ですが、2022年になって私の目を引くこととなり、読むこととなりました。

純文学なので、文章の美しさを楽しんだり、感じたことのある感情や現象を言葉にするとこうなるよねというのはとても楽しいです。主人公は、自分の中に起こる感情を認識し、一度論理の世界に突き放して整理するものの、やはり感情の奔流に飲まれ、論理に反して望まない・適切でない言葉や行動を選択してしまう。人生の思うままにいかない様を追体験するように感じます。

 

ただストーリーとしては、正直なところ本当に嫌いで、何度も本を置きかけました。というのも私もぷち演劇青年で、似たような思考的な枠組みを持っているし、似たような人をたくさん見てきたからだと思います。

 

自分だけが人生に躓きながら、繊細さによって苦しんでる。そんな他人の様が私は本当に嫌いでした。悲劇とは、悲劇を回避しうるあらゆる手を打って、なお悲劇となってしまうのが美しいのであって、自分から火に飛び込むような真似はみっともないと思っていたのです。しかしあるときに気付いたのは、それは自分の写し鏡で、自分自身の思考的な枠組みだということです。私自身が、自分が一番人生躓いているし、繊細だと思っているから、人にやさしくできないのです。本作の主人公はまさにそのタイプの人間で、イタい自分を直視するようで耐えられない作品でした。

 

人と自分との違いを愛せるようになったら本当の愛だといったことを誰かが言っていましたが、人は自分を愛してくれる人を探し求め、依存して同化し安心したいというのが根本あるのかなと思います。しかしやっぱり人間、自分の足でたった上で支え合わないといけないんだと、いつか気付きます。

 

梅雨が始まる季節、たまには大きな石をひっくり返して、ぐじゅぐじゅに湿りきった暗い世界を覗くのも悪くないものです。今日は過去の後悔と思い出を抱きしめて、ダンゴムシのように丸まって眠ります。

 

『金色夜叉』(尾崎紅葉、1898)

私が一番好きな小説で、この本との出会いは私の人生をかなり変えている気がします。

尾崎紅葉の長編小説で、読売新聞で連載されていた恋愛小説です。お宮は貫一の許嫁であり、貫一は両親のいない孤独の身にして、お宮の家に幼い頃からお世話になっている身である。そんななか銀行の頭取の息子とお宮が結婚するということとなります。全てを失った貫一は、熱海でお宮を蹴り飛ばし、お宮の両親が引いてくれた大学や留学の切符も破り捨て、全てを捨てて高利貸になります。その後、高利貸となった貫一と嫁いだ宮の両軸でストーリーが進行していきます。結論、宮は貫一を、貫一は宮を、感情として切り捨てて前に進むことができずに、憎しみと愛情と交錯していくというストーリーです。連載中に尾崎紅葉は亡くなり、未完に終わってしまっているのですが、構想メモでは宮が亡くなったあと、心を殺して高利貸になっていた貫一は義のためにお金を使い切るまさに『金色夜叉』となるとされています。

本当にいくらでも話したい小説なんですが、文体が華美でありかつ七五調のリズムで整えられているので、オペラをみているようにリアリティを持って迫ってくるものがあります。愛憎入り交じる微細な感情と、置かれる状況や心情に翻弄され上手く噛み合わない行動と、本当に美しい小説です。

特に「車は馳せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易らざる其の悒鬱を抱きて、遣る方無き五時間の独に倦み憊れつゝ、始て西那須野の駅に下車せり」という文章が有名なんですが、この前のシーンが本当に好きです。貫一の愛憎入り交じる感情が生み出す悪夢のシーンなのですが、本当に迫るものがあります。

 

この本に出会ったのは高校2年生の頃だったと記憶しているんですが、小説としての面白さ・美しさに感動すると共に、かなり私自身の人生を引きずり込んだ気がします。

私はその頃、青春の激情に飲まれており、世間の言葉で言うと中二病全盛期でした。徐々に寛解しながら最近ようやく治ったというところですが、当時は自分の感情の奔流があるなかで、どう処理したらいいかわからず、外に答えを求め小説以外にも、哲学や心理学から物理学の本まで読み漁っていました。

金色夜叉』については、私の「ドラマチックに生きて、死にたい」という心を大いに刺激していました。私はずっと「27歳で死ぬ」という確信と、「人間の行動は功利主義的な変数を全て解析できれば証明できる」という仮説に基づいて生きてきました。どちらもまた別の機会で書こうと思うのですが、ジミ・ヘンドリックスにような芸術的な天才性と、カール・マルクスのように人間の行動を論理を用いて説明する学問的な天才性を渇望していました。ともかくそんな確信と仮説に基づいて生きてきたなかで、貫一のように感情の繊細さを兼ね備えつつ、葛藤を乗り越え、破滅的に生き死にしたいと、『金色夜叉』を読んで思ったものです。

 

私は大学の頃、好きな女性に『金色夜叉』を渡したというかなり激イタな黒歴史があります。その後6-7年経ってそんな過去をほとんど忘れた頃、保険屋になって再会し、「本当に高利貸になったのね」と言われたことを思い出します。清少納言のようなソフィストケーテッドな美しさと、「難しい文章で頑張って必死で読んだんだから」という少女的な可愛さに、また捕まってしまったなと思ったものです。このあたりの感情はブログに載せるよそ行きの文章にまとめるほど、キレイに処理はできていないんですが、このあたりの経験は、封印してきた文学少年カネコにきっちり向き合って乗り越えていかないとなと思ったきっかけになります。ブログを始めたきっかけでもあります。社会不適合者である私は、本当にいろんな人に迷惑をかけながら、なんとか生きてきたんだなと色々な場面で気付かされます。感情の繊細さや美しいものを感じる心は忘れずに、元気で健康に生きて、恩返ししていきたいなと思います。

 


『狭小邸宅』(新庄耕、2013)

2019年に不動産会社に入社して、先輩からおすすめされて読んだ本です。不動産業界に戻り、○ープンハウスとの接点も増え、読み返したくなった本です。

 

要は上記の不動産会社の実態を小説にした本で、主人公がやさぐれて壊れていく様を読み進めていく形です。

 

「数字は人格」とはよく言いますし、それを否定すると「やってから言え」となるのが営業の世界です。小説と実態はどうかというと、いまはだいぶまともな会社が多いよと思いますが、小規模の会社で出身が元『狭小邸宅』関係や元マンション販売関係のところはこんな会社も多いように思えます。新卒から、敢えて『狭小邸宅』やその他不動産会社にくる人間は2パターンで、稼ぎたい人か寂しさを埋めたい人です。もう1パターンのまちづくりをしたいという人は早々に辞める傾向にあると思います。そんな若手が、経験を経るなかで真っ当なビジネスマンになっていくのかなと思います。それで言うと『狭小邸宅』の主人公は、寂しさを埋めたい、空っぽな自分を埋めたいというタイプですし、私もそのタイプです。DV夫婦やサド侯爵夫人のように、支配・被支配関係に倒錯を覚えるようなものです。エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』であるように、自由という重たくて持ってられないものを捨てたいという人間の性質が強く出たのが、『狭小邸宅』の主人公なのかなと思います。

 

そんな倒錯から、私はやっと覚めて、普通のビジネスマンになったと自負していますが、"成長志向"という皮を被った心の埋め合わせは日々様々な会社で起きているのかなと思います。心頭滅却すれば火もまた涼し。迷ったら忙しくしたいものです。