失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『桜の園』(チェーホフ、1903)

GWは青森に行ってきまして、大鰐温泉ヤマニ仙遊館に宿泊しました。明治5年創業の温泉旅館で、太宰治が高校生の頃に宿泊したり、文豪も通う宿だったそうです。

ヤマニ仙遊館|太宰治も訪れた宿 大鰐温泉で最も古い旅館-

   

お風呂が運よく貸し切りだったので、写真を撮らせていただきましたが、マジョリカタイルという日本製の手作りタイルが本当におしゃれで、素敵な宿でした。

調べると台湾にマジョリカタイルの博物館があるそうで、いつか行こうとおもいます。

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だいぶ前置きが長くなりましたが、『桜の園』の話をしようと思います。奇しくも太宰の『斜陽』のモデルというかオマージュ元でもあるみたいです。

どんな話かを簡単に書くと、下記の通りです。(本当は群像劇ですが、地主と商人の点に絞って書きます。)
――
爵位を持つ地主・ラネーフスカヤが、娘の付き添いで5年ぶりに自分のお屋敷に戻る。そこは桜の園と呼ばれるほど見事に桜の咲く土地である。地主はかつてのように裕福な暮らしはもはや望めず、金に困っている。桜の園は借金返済のため売りに出されているが、商人・ロパーヒンは土地の一部を別荘用地として貸し出せば、難局は避けられると助言する。しかし地主は散財する癖が抜けず、破産の危機も真剣に受け止めようとしない。
その後、ロパーヒンは桜の園の競売に出かける。ラネーフスカヤは不安に駆られているが、不安の原因は別れたパリの恋人とよりを戻すことであり、他の家族もそれぞれの恋や何かの悩みでてんやわんやである。その後ロパーヒンが現れ、自分が桜の園を買ったと宣言する。ロパーヒンは、貧しい農夫の身分から桜の園の地
主にまで出世したことに感動する。
ラネーフスカヤをはじめ元の地主一家は、桜の園を離れて出発する。ロパーヒンは別荘建設のため桜の樹の伐採を命じ、出立する。
そしてお屋敷には、病院に行ったと思われていた老僕が、実はひとり屋敷に取り残されていた。老僕は横たわったまま身動きひとつしなくなる。外では桜の幹に斧を打ち込む音が聞こえる。
――
私が昔に戯曲として本で読んだ際には、悲しい話だなと思ってました。現にいまでも悲劇として舞台で上演されることも多いです。栄枯盛衰。大事にしていた土地や景色がなくなっていく様、身分から転落する様、そんな様子を悲観的に見ていました。
しかし、最近読み直して違和感があって、色んな人の解説や見解を調べてみると、チェーホフは本作を喜劇として創作したということを知りました。確かに、本作を引いた視点でみると、それぞれの悩みはある種どうでもいいことというか、結果みんな幸せではあるというか、おめでたい連中だという感覚になってきます。お金の悩みや身分の悩み、或いは恋の悩み、当人にとっては深刻な事象ではあることは事実です。一方で、その事象が幸福度に直接作用するかというと否で、その事象を受け取る人の受け取り方次第で、悲劇にもなるし、喜劇にもなるということです。
人は歳をとって病気にもなるし、考え方も変わるし、人間関係も変わっていきます。そしてインフレの世の中で、ただ生きるのにもお金が要るし、大変な感じもします。ただすべて受け取り方の問題で、何とかなるというか、何ともならないというか、固執しない以外の方法はないのかなと思い至ったのです。
世の中が“不条理”であるというのが道理であって、その道理を “不条理”と感じる人間が居るだけなのかなとも思うのです。ただその重たく残酷で”不条理”な道理を一人で受け止めるのは辛いものです。だからこそ、周りの誰かがそれに共感してやわらげたり、一緒に乗り越えていく手助けをしたり、そうすることで世の中の幸福度は上がるのではないかなと思います。
人はお金からも生活からも人間関係からも逃れられないという“不条理”を不動産業界の仕事の現場では多く目にします。
そんな“不条理” な不動産の世界で働くからには、少しでもその“不条理”をやわらげていけるようにお手伝いしたいものだなと思うGW中日の夜でした。

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『新世紀エヴァンゲリオン』(貞本義行、1995~2013)

だいぶご無沙汰しております。GWで電車移動が長く、暇ななかで、Kindleセールで買って積んでいたのをダウンロードしておいて読みました。

エヴァは正直ストーリーを全然知らないまま過ごしてきました。

私が中学生のときに新劇場版をやっていて、序と破はエヴァ好きの友達と一緒に観に行ったのですが、話が難しくてよくわからないなと思った記憶があります。

あと別の思い出としては、数年前に東急歌舞伎町タワーのこけら落とし公演が、「エヴァンゲリオン ビヨンド」という公園で、演出家が好きな方だったので観にはいきました。めちゃくちゃ良い舞台でしたが、エヴァンゲリオンファンの先輩と観に行きましたが、ストーリーは結構オリジナルだったみたいで、いつかちゃんと観たいなとおもっていたところでした。

『舞台・エヴァンゲリオン ビヨンド』 | KUNIO official website

そしてこの度、15年の時を経て、改めてちゃんと向き合う機会になりました。

結果、めちゃくちゃ面白かったです。今更いう人も少ないかもしれないですが…

戦闘がかっこいいとかももちろんあるんですけれど、人間ドラマだなと思う作品でした。

未熟だけれどもパイロットとして生きなければいけない少年少女が、自分のトラウマを乗り越えたり、欠けている部分を見つめなおして大人になったり、そんなところがベタですが面白い作品です。高校生のときに観たときは、私自身が少年の渦中だったから、いまほど引いて観られてなかったなと思います。彼らほどトラウマだったり死線を潜り抜けてはないですが、みんなそうやって大人になるなといまだと思います。

一方で、本作は結構大人たちがきついなと思う作品です。メンヘラの大人しかいない作品で、碇ゲンドウとそれを伴う大人たちが、メンヘラすぎて厳しいです。ただし、ちょっと寄り添って解釈すると、地球が一回滅びかかって、重たいトラウマをそれぞれ抱えるなかで、この世界全体が精神疾患に近い病気になっているとも思えます。アメリカの産業の衰退する州で、働かずに安価なドラッグに手を出す大人が多かったり、稼いでいる人たちもハードワークでおかしくなっていいたり…エヴァの世界にもそんな背景を加味すると、「たしかに彼らも大変だしな」と思いはします。まあその要因を加味しても、目に余るメンヘラさで厳しいところです。人を恨むのは自由ですが、自責の心というか、変えられる自分自身に目を向けて成長してほしいものです。シンジくんもアスカもレイもそれぞれ成長しているのに、碇ゲンドウや赤木リツコは結構しんどい感じです。

あともう少し概念的な話というか人類補完計画などの観点で観ると、このメンヘラさも必要なピースというか、人類補完計画を成り立たせるためにメンヘラなキャラをいれられてしまったのかなとおもいます。読む前は人類補完計画も、人口を減らしたり増やしたりする話かと勘違いしてましたが、自己と他者という概念の話で、ATフィールドも攻撃をバリアする概念であると同時に、他者との心の壁を表す関係する概念だと知れて驚きでした。

これはサルトルの「出口なし」の「地獄とは他人のことである」をまさに表したような話であるなと思います。自由な意志は、関係する他者によって規定され制限される。エヴァの人間ドラマもまさに出口なき地獄を天国にする話であるなと思うのです。

ジャン・ポール・サルトル 実存の文学 4/4 『出口なし』 地獄とは他者 – LA BOHEME GALANTE ボエム・ギャラント

サルトルにとって、人間とは「自由であることを常に余儀なくされている」存在である。
その一方で、社会の中で常に他者と関係しながら生きざるをえないことも否定できない。
その両面性を考えると、人間は自由であるが、同時に、他者の視線を感じ、他者に裁かれる存在でもある。

思うに、こんな形而上の話は、まあ形而上の話として大事ですし、素晴らしい切り口です。サルトルはこの概念を伝える戯曲として「出口なし」という思考実験的な3人芝居を作ったような気がします。(あんまり経緯を知らないので違うかもしれないですが)

ただし、形而下というか普通に生きるうえでは、他人を他人として切り離すことが赤ちゃんから少年・大人の階段ですし、皆そのうえで制限された自由を楽しんでいる訳です。それをエヴァのなかで、自他が溶け合った状態に戻すという人類補完計画を目指すのは、なんか赤ちゃん概念すぎるというか、親離れできない母親の愚痴を聞いているみたいできついものです。それを良い歳した碇ゲンドウとか赤木リツコという大人が、過去のトラウマを根拠に目指しているのは、本当に気持ちが悪いなと思うものです。

まあともかく面白い話で、ちゃんと向き合って読んでよかったなと思う読書体験でした。

新劇場版も最後のQは観てないですし、序破も覚えてないので、どこかでゆっくり観てみようと思います。

『破壊系資本主義――民主主義から脱出するリバタリアン――』(クィン・スロボディアン、松島聖子訳、2026) 

仕事ラッシュが終わって暇になってしまい、大雨の日はジュンク堂で本を買って読むというサボリーマンの一日でした。

書店にいくと面白いもので、最近の流行のようなものが見える気がします。その中で見つかったのが本書です。

もはや自由と民主主義が両立するとは思っていない。リバタリアンが取り組むべき大仕事は、あらゆる形態の政治から逃れる方法を見つけることだ

民主主義なき世界で広がる資本主義について描いた書です。

台湾、シンガポール、リヒテンシュタイン、ソマリ、ドバイ、ホンジュラス…それぞれの経緯で民主主義が及ばなくなった先で、資本主義の急拡大がみられる現象があります。経済的自由を実現しながら民主主義的には俯瞰戦な領域=”ゾーン”と呼ばれる場所を人工的に再現するべく、種々の経済特区やタックスヘイブンが実験的に作られています。そんな実態を書き記し、民主主義なき世界の資本主義について議論する内容です。

とても興味深い内容で、私の仕事である不動産について、視座が広がった気がします。不動産というのは面白い仕事で、人々の生活や思い出や諸々という価値と貨幣という価値を交換するもので、そのドラマの面白さや、必要性・生活からの切り離せなさや、世界市場に置かれる一方で非情にローカルなマーケットを形成するのが独特で面白いです。

一方で本書で描かれるように、投機の対象としても不動産は根強い人気を誇ります。それは私はあまりよくないことだと感情的には思っていますが、致し方ないし、生活を脅かす面もありつつも、結果的には良いことかなとも思っていました。本書を読むと、なんとなく思っていた国家の終焉を感じます。そんな国家の終焉の結果、投機の対象として選ばれ続ける都市にしないといけないし、法人税率などを下げて企業を呼び込むことをしないと、自由に移動するお金・資本を集めて囲うことはできないなという結論です。しかも機能しているように見える民主主義国家も、大手企業のロビー活動でボロボロですし、資本主義によって民主主義は破壊される運命なのかもしれないです。

下記に読書メモを残しましたが、フランシス=フクヤマ曰く、「”歴史の終わり”の先はソフト独裁」らしいです。人類がやっとの思いで手に入れた民主主義は、何を生んだのでしょうか。世界の富裕層の”投資”のお手伝いをして賃金をもらって、投資家様に家賃を支払って生きている不動産屋のカネコ。そういえば本質的な階級闘争のような争いをせず、表層的な争いで優越願望を満たす「最後の人間」。不動産屋もLast Manの一人なんだなと思うこのごろです。

 

<読書メモ>

香港モデル=「不動産覇権」…不動産取引が他の生産形態を凌駕する香港の経済モデルは投機に基づくもの。所得への一律課税。

同様に英国では、富裕層の4分の1が不動産を所有し、それを富の主な源泉としている。

ロンドン、香港、ニューヨークといった国際都市では、労働市場が

二重構造を成し、利益の大半は一番上にいる少数な人のところに集まる。

→国家の主な役割とは、不動産価格が上昇を続けるように手を打つことを含め、投機を繰り返す資金のつなぎ止めに必要なあらゆる措置をとり、その都市を資金の一時的な預け場所として選んでもらうことだ。

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最も成功したサッチャーの政策の一つは、公営住宅を大幅に値引きして借主に売却する「住宅購入」プログラムである。

当時の英国の住宅の3分の1は公営住宅→半数にあたる270万戸を売却

→一時は持ち家比率が上がったが、2003年をピークに住宅が投機の対象に

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シンガポール方式=独裁(民主主義の不完全さ)+経済的自由

儒教的共同体主義…国民が安定や秩序と引き換えに、ある程度の父権主義的な支配を許容する素養

フランシス=フクヤマの歴史の終わりの先→ソフトな独裁主義

実は儒教が資本主義成長のカギ?勤勉さや雇用主への忠誠心、職場での協力

→それがリークアンユー。個人主義の否定、家族主義へ

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ロスバートの研究。

国家から離脱を求める人々が示す兆候

極左・無政府主義→極右(人種差別と好戦的な不寛容主義)

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リヒテンシュタイン…タックスヘイブンの始祖、貴族による国家所有の始祖

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ソマリア 秩序ある無政府主義

士族による支配、慣習法

→ミニ政府のネットワーク、唯一の無政府国家。

ベルベラ港での貿易の収益×ドバイの発展

ドバイの前哨基地としてのソマリア

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ホンジュラスの売却の話

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デジタル共和国「エストニア」

電子市民プログラム。

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ヘーゲル…主人は奴隷がいなければ立ちゆかない

ホンジュラスやドバイの現状、自由の元のエッセンシャルワーカーやギグワーカーの貧困。

 

『ペスト』(カミュ、1947)

アフターコロナの2-3年前に買いましたが、結果読んでなくて、本棚整理プロジェクトの一環で読み終えました。70年後の未来を予想し、その結果まで描いているような未来予測といってもいいくらいの内容でした。

アルジェリアのオラン市にペストが流行したという想定のもと、ロックダウンする町でペストと相対する医師や行政、市井の民の姿を描きます。

ペスト流行の初期は、死んだ人の数などの報道が多く出るけれど、人々はみな他人事というか、想像ができないので話題にはするけれど変わらぬ日々を送ります。

まさにコロナの際に、中国で謎の病気が流行っているとニュースで知り、2020年1月にダイヤモンドプリンセス号でコロナの初感染が出たころもそんな感じだった気がします。「ロックダウンの前に駆け込みで旅行にいけてラッキーだったよ」みたいな話もしてましたし、そんなに長く続くことだという予測や他人に対する想像力がそこまで及ばなかった記憶です。

その後、飛行機や電車が間引かれたり、外出禁止になったり、志村けんさんが亡くなったり、そんな変化で徐々に生活が変わっていき、人とも会えなくなり、心理的にも変わっていったような気がします。そんな現実の変化と全く一緒の変化が、本作でも描かれていきます。

長いですが下記に引用する様子が、コロナに相対した私たちと全く一緒だなと思います。

市民たち、少なくともこの別離に最も苦しんでいた人々は、現在の状況に慣れてしまったのであろうか?それを肯定することは完全に正しいとはいえないであろう。彼らは精神的にも肉体的にも、肉のやせ細るのに苦しんでいたといったほうが、もっと正確であろう。

ペストの初めのころには、彼らは自分の手もとから失われた者のことを、きわめてよく思い出して、なつかしがったものであった。しかし、愛するその顔や、その笑い声や、今になってそれは幸福な日だったとわかった、ある日のことなどは、あざやかに思い出せたとしても、彼らがそうして思い出しているその時刻に、しかもそれ以来じつに遠いところとなった場所で、相手がどんなことをしているものか、それを想像することは困難であった。要するに、この時期においては、彼らには記憶はあったが、想像が不十分だったのである。

ぺストの第二段階においては、彼らは記憶も失ってしまった。その顔を忘れてしまったわけではなく、しかし結局同じことになるが、その顔が肉づけを失ってしまい、彼らはその顔を自分の内部に見出しえなくなってしまったのである。そして、 最初何週間かの間は、自分の愛に関することがらにおいて、もう亡霊ばかりしか相手にできなくなったことを、彼らはとかく嘆きたがったものであったのに、その後彼らは、これらの亡霊がさらにやせ細って、思い出によって残されていた最も些細な色合いまで失ってしまいうることに気がついたのであった。この長い別離の期間の果てには、彼らはもう、かつて自分たち同士のものだったあの親しさも、また、いつでもその肩に手をかけることのできた相手が、自分のそばでいったいどんなふうに暮していたものかも、想像できなくなってしまった。

この点から見れば、彼らはペストの世界そのもの、平々凡々であるだけに、一層威力のある世界に、はいっていたわけである。われわれの町では、もう誰一人、大袈裟な感情というものを感じなくなった。そのかわり、誰も彼もが、単調な感情を味わっていた。「もう終ってもいい時分だ」と、市民たちはいっていたが、それは天災時においては集団的な苦痛の終了を願うのは普通のことだからであり、また実際に彼らはそれが終ることを願っていたからである。しかし、これらの言葉も、初めのころのような熱っぽさや痛切な感情はなく、ただ、われわれがまだはっきり取りとめている、つまり貧弱なものである、若干の分別をもっていわれるのであった。最初の数週の激しい、がむしゃらな衝動に続いて、一つの錆沈状態が訪れ、それはあきらめと見るのは間違いであったろうが、しかしそれにしても一種の一時的な同意であるには違いなかった。

市民たちは事の成行きに甘んじて歩調を合わせ、世間の言葉を借りれば、みずから適応していったのであるが、それというのも、そのほかにはやりようがなかったからである。彼らはまだ当然のことながら、不幸と苦痛との態度をとっていたが、しかしその痛みはもう感じていなかった。それに、たとえば医師リウーなどはそう考えていたのであるが、まさにそれが不幸というものであり、そして絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである。

(中略)

今はじめて、引離されている人々も、いなくなった相手のことを語ったり、万人向きの用語を用いたり、自分たちの別離を病疫の統計と同じ角度において検討したりすることを、嫌がらなくなった。それまでは、自分たちの苦痛を集団的な不幸からがむしゃらに引離していたのに、 今ではその混交を許容していた。記憶もなく、希望もなく、彼らはただ現在のなかに腰をすえていた。実際のところ、すべてが彼らにとって現在となっていたのである。これもいっておかねばならぬが、ぺストはすべての者から、恋愛と、さらに友情の能力さえも奪ってしまった。なぜなら、愛は幾らかの未来を要求するものであり、しかもわれわれにとってはもはや刻々の瞬間しか存在しなかったからである。

すごい沁みる文章だなというか、私自身やここ数年での世間の変化はここに詰まっている気がしています。全部がコロナのせいだとは思わないですが、なんか世の中が早くなったというか、性急で刹那的になっていることに、コロナは一役買っている気がしています。

人の記憶や想像力には限界がある。そして記憶の限界から、絶望さえも忘れて、表面的には絶望していないようにふるまう。想像力の欠如から、未来も想像できなくなり、瞬間瞬間のことにしか目がいかなくなる。

そんな人間の変容を冷静に観察している一節だなと思います。ペストやコロナは不条理な『死に至る病』であるなと思うこの頃です。

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『世界はいつまで食べていけるのか――人類史から読み解く食糧問題――』(パーツラフシュミエル、栗木さつき訳、2025)

タイトルで思わず手にとってしまった本です。

内容はタイトルの通りですが、商品紹介を下記に引用します。

地球環境を守りながら、97億人を養うことはできるのか? ファクトで考える食の未来
米・小麦・牛・豚・鶏――我々はなぜ限られた種類の糧に頼るのか?
地球環境を守りながら、世界97億人を養うことはできるのか?
「飢餓と食の常識を覆す。思考が一変する一冊」 ― ビル・ゲイツ

なぜ、1人あたり1,000キロカロリーもの食料が毎日無駄にされているのか?人口が爆発的に増えるなか、どうすれば地球を壊さずに人類が食べていけるのか?知の巨人シュミルがこれまでの知見を総動員。そのテーマが「食料」であるのは、私たちの生存の根幹であると同時に、エネルギーなどほかの分野と比べても衝撃的なレベルで非効率が目立つからだ。本書では、歴史を踏まえながら、気候変動や人口増加という難題に直面する食料供給の未来を検証。私たちがいかに食の基本を誤解しているかを明らかにし、私たちの身体は何を必要としているのか、そしてそれが環境にどんな影響を与えているのかを、ファクトから誇張なしに描き出す。

私は昔からこの問題が気になりすぎています。小学生の頃に授業でアル・ゴアの『不都合な真実』を見せられてから、社会が持続可能かというか、人間はおしまいなんじゃないかという疑いが常に付きまとっていて、未だに答えが見つかりません。

本書は人類史の視点で様々な角度から「食糧問題」に切り込みますが、印象に残ったのは下記の議論です。

1点目は狩猟社会についてです。

私があまり知らないままというかなんとなくのあこがれがあった「狩猟時代の人間賛美」論で否定してくれました。ジャレド・ダイアモンドは「農業は人類史上最大の過ち」といったそうで、私も著者の作品は過去に多く読んだのでその影響かもしれないです。結論はシンプルですが、狩猟では多くの人をカロリーベースで養うことは不可能で、多くの人がいなければ文明は発展しないというものです。狩猟採集社会を成立させるには、マンモスや海獣類など、脂質が多い生き物を獲らねばならない。ただそういった個体は成長が遅く増えにくい。シカやウサギ・ネズミなど、個体数が増えやすい動物は、脂質が少なく十分なカロリーを得られず、多くの個体を仕留めねばならないから現実的に厳しい。

その議論は興味深く、私の「シカなんて増えすぎてるし、獲って食べればいいじゃん」というなんとなくの思いつきを消してくれるものでした。

同様に魚も同じ問題があるそうで、穀物ベースの餌だけで育つコイなどはカロリーベースの収量では効率が悪い。反対にカロリーベースの収量が高いマグロやサケを育てるには、穀物ベースの餌だけではだめで、イワシなどの脂質を混ぜ込んだ餌を与えないと効率よく育たないそうで、イメージとのギャップがありました。

2つめに関心がむいたのは、光合成の効率についてです。実は光合成は、効率が悪い反応で、太陽光のエネルギーのほとんどを変換できていないということです。可食部に絞ると、小麦0.27%、コメ0.25%、ジャガイモ0.6%、サトウキビ1.2%です。可視光線の一部しか用いることができない点や、呼吸が必要な点等が影響するそうです。中学生のとき、下記の本を読んで衝撃で、「いかに有機物を、食べられる・エネルギーに変換できるような形にするか」という当たり前といえば当たり前ですが、炭素史観的な考え方を知りました。

昔読んだだけでうろ覚えですが、今回の読書ではその知識がより正確になった気がします。

また下記の家畜の肉1㎏を増やすのに必要なトウモロコシの量は下記だそうです。

ウシ 12㎏(1910年は10㎏)…可食部40%

ブタ 6.6㎏(1910年は5㎏)…可食部55%

トリ 1.6㎏(1925年は5.5㎏)…可食部60%

私はこの話を知っていたのもあって、「安いし環境のためになるべく鶏肉を選択する」という思想がありました。ただ鶏は、人間も食べられるトウモロコシを餌をするが、牛は人間が消化できない草から育つことを忘れてました。ただし早く大量の肉を得るためにはウシにもトウモロコシを与えます。結局のところ著者の主張は、太陽光のエネルギー変換する効率を考えると、どちらも同様に悪いというものでした。

その後、代替肉や生産力の増強などの様々な技術などの議論にも行きますが、結論としてはエネルギー効率は生命を相手にする以上限界があるため、フードロスや輸送・加工コストなどの人間がコントロール可能なものに目を向けようという話でした。

2100年までヒトは増え続けるし、食糧も足りないし、元となる水も化学肥料も足りなそうで、さらに温暖化もあるし、私はずっとこの世界が持続可能な気がしません。まあそんなことを言っても生きていかないといけないし、ヒトたちの生や社会は続くので、なんとかしないといけない。そんな薄いことを思うのです。そういえばそもそも、ダイエットする(=カロリーを意図的に消費する)必要があるくらい太っているなら、自分が食べる量を減らすことがSDGsにつながる気がします。「足るを知る」がSDGsの最適解なのかもしれないです。