失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『世界は「関係」でできている』(カルロ・ロヴェッリ、2021)

最近、集中力がないし、感動することが少なくなってきてしまった気がします。いや、感動するシーンも多いし、語りたいな・共有したいなと思うことも少なくはないのですが、言語化することの無意味さというか、感情を言葉にする際に理性を通すことで、ちょっと陳腐化するというか…「マシュー・ボーンロミオとジュリエット」を観に行ったり、絵画の展覧会に行く機会あったり、ちょっと違うけどラグビーを久しぶりにやったり…五感を使って吸収し感じた当時の自分の感情はぐじゃぐじゃにあるのだけれど、言葉に整理して出す際にノッてこないし、そもそも言葉が出てこないのです。ちょっと前にヴィトゲンシュタインにいのちを救われたという哲学科の先輩と話したときにもちょっと思ったんですが、語り得ないものを無理に言葉にすることは意味がないのかもしれないです。

そんなこんなで最近読んだ本です。私は世の中の真理を知りたくて、大学に行ったみたいなところがあるので、ホーキング博士の一般向けの量子力学の本が大好きで、どうしてこの世界がこうなっているのかみたいなことに強く関心を寄せてました。カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』も好きで、大学の頃に読んだと記憶していますが、当時は衝撃的で、なんで衝撃的だったかはあいまいですが、自身の世の中に対する見方というか固定観念を打破してくれるものを渇望していたのだとおもいます。

いま『世界は「関係」でできている』を読むと、量子論にもいろいろな派閥があって、量子力学科学史を紐解いているみたいで知識としてはとても面白かったです。ただエモーションな箇所にひっかかる箇所は下記のところでした。

思春期には、脳のニューロンのネットワークが急に再編成される。何でもかでも強烈に感じられて、あらゆるものに心を奪われ、すべてにまごつく。思春期を終えたばかりのわたしはすっかり混乱しており、疑問だらけだった。物事の本性を知りたい、とわたしは思った。この自然を、自分たちの思索によってどう理解できるのかが知りたい。現実とは何なのか。考えるとはどういうことなのか。物事を考えているこの「自分」とはいったい何なのか。

冒頭の集中力がない・感動しない話に戻りますが、もっとシンプルな話で、最近の私は良く言うと成長したし、悪くいうと「あらゆるものに心奪われ」る好奇心・感性が老いて鈍くなってきたのかもしれないです。

このブログは令和の『人間失格』のような自伝を目指してきましたが、いまや私自身が太宰修的な若者の自己愛と矛盾を脱し共感できなくなってきたように思います。もっと老練なブログを、さくらももこのように日常を斜に観たエッセイ的な色彩の話に寄せていくのもいいのかもしれないです。色々ネタ的な話もたまってはいるので、徒然なるままに筆を走らせていこうと思うのです。