失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『未必のマクベス』(早瀬耕、2017)

水曜日にブリッジ的な休暇があったおかげで、睡眠習慣が改善され、体調がよくなりつつあります。運動をしたことも影響している気がして、睡眠と運動の大切さを実感しています。木曜日は皇居ランをして、昨日は松戸で10kmランニングし、今日も今日でラグビーを久しぶりにやる予定です。毎日健康生活、頑張っていこうかなと思います。

『未必のマクベス』は、普段はあまり読まないジャンルの小説ですが、友達が「めちゃ面白いから」と貸してくれまして、読む機会をいただいた次第です。

VIVANTとか半沢直樹的な雰囲気のある小説で、日本企業の香港法人で、主人公が社内権力闘争的なものに巻き込まれていく話です。”未必”とは、”未必”の故意でしか聞かない言葉ですが、ほぼ故意というか、自分の行為からそのような事実が発生するかもしれないと思いながら、あえて実行する場合の心理状態を指します。そして”マクベス”はかの有名なシェイクスピアの戯曲を指し、登場人物たちがマクベスと同様の悲劇の運命に巻き込まれていきます。劇中でもマクベスを観に行くシーンがあり、主人公等も自身がマクベスのような運命に巻き込まれているという自覚を持って行動しています。

日本人が好きな「課長島耕作的なろう小説」要素があり、ミステリー要素があり、マクベスオマージュ風なおしゃれさがあり、人気になるだろうし、筋書としては面白いなと思う小説でした。

ただここまで言っておいて、こんな話をするのは野暮なのですが、私は昔からミステリー小説的な要素のある作品が苦手で、あんまり興味が持てないです。どこからをミステリー小説と呼ぶのかわからないですが、東野圭吾とか宮部みゆきとか湊かなえとか、解決すべき謎がずっと臭わされており、それの解決に向かって収斂していく感じが、あまり好きでないです。謎を作り謎を解決するために、人の行動が配置されている感じが冷めるというか、興味をどんどん減退させていく感じがします。「ほんまにその状況で、そんな感情になって、そんな行動をとるか?」という野暮な突っ込みが常に入り、没入できないのです。結論は私の個人の問題というか、ミステリー小説の提示する謎に興味がなく、その謎に相対する人間の感情にしか興味がないという性格に起因しています。内面の葛藤とか心理的な描写やエモさを小説に求めているのと、ミステリー小説は対極にあるのかなと思うのです。

加えて「課長島耕作的なろう小説」も全然好きじゃなくて、ちょっと上の世代向けというか、私世代はあんまり共感できないと思っています。出世したいとか組織で立場をよくしたい・人から良く見られたいという思いや欲は、SNS社会の到来によって、もっと細分化・ニッチ化されたと考えています。世界の王になるより、小集団の王になりたい。もっというと王にすらなる必要はなくて、特定のコミュニティで役割が持てて、誰かに認められさえすれば良いという世界になっている気がします。加えて、出世以外でも稼ぐルートや商売の人が増えてきて、それがSNSで可視化され、「大企業で頑張って出世するより、ベンチャー企業を一緒に大きくしていくのもいいよね」「独立して稼ぐ方がいいよね」「稼ぎは少なくてもやりたいことやりたいよね」という色々な価値観が生まれているように思います。そうするとかつては皆が目指すべきであった会社での出世というのは、些事というか各々の目標に過ぎなくなってきます。「島耕作」的な世界はたぶん20代以下にはウケないのです。

散々言っている感じがしますが、話は流行りそうですし面白かったです。映画とかドラマになったら流行る気がしますし、もうなっているかもしれないです。