失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ、1992)

2023年6月24日から俄かにロシアとウクライナの戦争が大きく動いたように、ニュースを見ていて感じました。ロシアの民間軍事会社であるワグネルがロシアに反旗を翻して首都モスクワに向けて侵攻するというニュース、プーチンが搭乗すると思われるロシア政府専用機が国外へ飛び立ったニュース、状況が一転しワグネルが侵攻を停止するというニュース、こんな騒ぎが続く週末でした。
私は本当に戦争というものが嫌いで、ウクライナとロシアの戦争や、中国とチベットウイグルとの紛争、インドとパキスタンの紛争、そういったものを耳にすると、悲しい気持ちになります。
「なんで人と人は分かり合えないのだろう?」
「なんで人と人は争うのだろう?」
この2つは私のなかに昔からある興味関心というか、解決しなければならないテーマのように感じています。こういったニュースをみると「なんとかできないかな」と、何もできないことにも気づきながらたまに真剣に考えてしまうのです。
『歴史の終わり』を読み返しながらそんなことを考える週末でした。

初めて読んだのは高校の時で、

「人間は他者より優越したいという本能を持つ。その結果、争いは避けられない」

という考えを知り、私自身もその考えが意識の底に流れています。そんな前提を経て、マルクス史観的な議論で、民主主義というものが人間の到達しうる最後の政治形態だという結論になります。絶対的な超越者なく、誰でも争いを平和的・民主的に参戦することができ、日々様々な尺度での争いによって欲望を吸収することができるのです。

久しぶりに読み返しながら、何で人は人より優越したいのだろうと考えてました。そんななかで三大欲求を、民主的に争える『歴史の終わり』に立つ現代人の言葉に直すとこんなイメージなんじゃないかなとか考えてました。

  • 性欲=種をのこしたい→モテたい
  • 睡眠欲=カロリーを抑えたい→安定したい
  • 食欲=より多くのカロリーを接種したい→稼ぎたい

その後で、「名誉欲・自己承認欲求というものは、上の3つが入り混じって混乱している状態ではないか」という考えが生まれました。例えば

  • 出世したい=モテたい、安定したい、稼ぎたい
  • SNSでバズりたい=同上 
  • etc...

もっというと睡眠欲も食欲も普通にしていたら満たされる現代社会では、ほとんどか性欲・モテたいに集約されるのかもしれないです。

戦争について考えていたら、人間について考えてしまいましたが、戦争とは誰も感情的にプラスに作用しないから絶対的に辞めたほうがいいのです。それでは論理というか経済活動としてプラスに作用するかというと、現代の世の中では全てマイナスにしか働かないと思うのです(抑圧されている部族が蜂起するとかは別で、国家間の戦争を想定する場合)。今回の戦争は、プーチンの個人の欲望なのか?。わかりませんが、かつての戦争の原因も複合的な要因によってなされますし、ずっとわからないとは思います。

いまの資本主義社会では、経済的な戦争が日々国家間でも、会社間でも、個々の人間の間でも繰り広げられていますが、命を奪うような暴力がないのでそれは大賛成です(国による社会福祉政策や相互扶助的な社会を前提としますが)。そこで満たされない人は、別の尺度の戦いを設定して、優越していけばいいから、『歴史の終わり』論が成り立つと思うのです。皆が皆、「自分は何によって満たされるか」を追い求めて、幸福度で戦うというか満たし合う世の中のほうが素敵だしいいなと思うのです。

私は貧乏で経済的な戦いには敗北していますが「目の間の人の幸福度・楽しさを上げることができるか」という戦いを日々繰り広げ、『歴史の終わり』を生きているのです。