失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『美と共同体と東大闘争』(三島由紀夫・東大全共闘、2000)

私はあまり映画を観ないんですが、この映画は2回観ました。書籍版というかほぼ映画の文字起こしを見つけまして、かなり興奮して一気に読み切りました。

やっぱりこれを読むと、私の中途半端な生き様を色々思い出すんですが、きっと三島も全共闘Cこと芥正彦も、理想と現実世界のギャップをどうやって乗り越えていくか、藻掻いてたんだろうなと思うのです。

 

私の祖母は熱心な共産党員だったらしいですが、そんなことを知る前に私は勝手にカール・マルクスに憧れてたくらいだし、最近知ったのは遠い親戚には熱心なトロツキストもいたようで、血は争えないのかもしれないです。

私は小中高とずっとアナーキストというか、人同士の内的な感情が、大人やもっというと国とか諸々の外部要因によって阻害されることが許せなかったというか、なんとかうまくならないかなとずっと思ってたし、それを学問のように体系化された論理や政治・社会の仕組みによってより良くできないかなと考えてました。小さい時に見えていた世界では、直感では人と人は必ずわかりあえるはずなのに、現実世界ではわかりあえないことが理解不能でした。例えば貧困がなくなれば、戦争も争いもなくなるのではと考えてました。中高で歴史を学ぶにつれて、どうやら民主主義といったものは貧困をなくすことには繋がらなかったし、共産主義の資金の再分配も失敗したしといったことに気付き始めました。じゃあ何と何の対立があって、そこを乗り越えてアウフヘーベンすれば世の中がもっと良くなることができるかなんて考えていました。そんなときにフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を読んで、この私が生きる民主主義の世界は、形而上の論理的な側面では完成形だなんて話も知りました。ヘーゲル的な歴史観に囚われた私は、カール・マルクスの『資本論』をやり直せば、『資本論』当時は測定し得なかった経済データやもっと人間の内的な感情データに基づいて組み立てれば、人間社会がもっと”良くなる”のではという野望を描いて大学に行きました。”良くなる”の定義も面倒ですが、私が小さい頃から思っているような、人と人は心の奥底のピュアな部分で対話すればわかりあえるし、それが社会全体に敷衍していけるような仕組みがあるはずだという熱い想いがあったのです。

その後、大学に入ると大学にそれなりにいかなくなるのですが、それなりに授業には行ってぎりぎり卒業し、それなりに遊んで堕落するというカール・マルクス計画は中途半端というかほぼ未着手な結果に終わりました。入る前から薄々わかってはいたのですが、私の頭やそもそも無理だろうという諦めも当然ありました。それ以上にショックだったのは、私は意外に社会や人の敷いたレールから逸脱することができないことへのショックでした。大学4年はフルで単位を取らないと卒業できませんでしたが、フルで単位を取った上で、ストレートで卒業して、普通に東証一部上場の会社でサラリーマンをやることを受け入れることのダサさというか、革命家になれなかったうえに、天才でもなければ破天荒でもなく美しくもない自分の生き様に反吐が出ました。

同様の不の感情は、外資系の生命保険会社で個人事業主を辞めるときにも感じましたが、結局いまは悩んだときに観念の世界に逃げ込む悪癖が軽減されたことによって解消されたのかなと思います。「情緒的な事柄で悩むな」「マインドフルネスが大事だ」なんてよくニュース記事などで見た気がしますが、少し前まで私はドライで論理的な人間だという自己認識がありました。それは逃避であって、感情の動きを観測しないで、観念のフレームワークに無理やり押し込んでいただけだと気づいたのです。やっぱり私は新卒のときに指導してくれた上司を尊敬しているし、いまになってその時教わったことを真に理解することも多いのですが、「自分がどんなことを楽しいと感じ、嫌だと感じているかを認識できないと、営業という人の心を動かす仕事はできないよ」という助言

この『美と共同体と全共闘』でも似た内容が議論されていました。

P.72~

三島 (全共闘Eに向かって)

そうするとあなたの言う現在というものは常に目的論的な意味が含まれていると理解していい?そうね。しかるがゆえにそれは未来へ論理的に連続すると考える。それでいいわけだな。ぼくにとってはつまり現在というものは全然目的論的に絶対把握されない。したがって現在というものと過去というものあるいは未来というものは完全に次元が違うんだね。……(中略)……

そして言葉というものはそれこそ一定の持続がなければ諸君の間に伝播する力がないわけだ。……(中略)……(言葉が)意味を生ずるのは、言葉がすでにそこに使われて、一定の空間の共同体の中で一定の時間の持続に従って約束のうちで使われているから言葉になる。そしてそれはどうしたって過去に属するのだ。……(中略)……

私は文化というものは一つの長い時間の集積でもってここにまた自分の中に続いている。外材すると同時に内在するその中から自分がセレクトするというのが自分の現在一瞬一瞬の行為である。その行為の集積が自分の作品になるんだが、その作品もでき上がっちまえばこれも過去に押しやられちゃう。そうやって我々が生きているのが文士という生活です。

ところが未来というものはなんだ。私は未来というものは不定形なものだ、これはあなたにとっても不定型であると同時に私にとっても不定型だ。その未来というもののこのゼリー状の未来を現在の一瞬一瞬の行為でもって少しでもこうやって押していく。押せば形になっちゃう。形になっちゃえばつまらない。つまらないけれどもまた押す。またゼリーが形になる、またつまらない、そうやって押して暮らしてるんだ、ね。しかし私はそのアンフォルメルなゼリー状の未来というものに何も賭けたくないんだ。そういうものに賭けたくないからこそ現在の瞬間、瞬間のセレクションに生きようとしているんだ。だから私にとっては未来というものと現在というものと過去というものは画然と違った三つのもので、その間に目的論というものは介在しない。

それが私のあなたに対する答えというか、私としての立場ですね。

カールマルクスになりたかった高校から大学1-2年の頃を超えると、ニヒリズムが私の精神を支配し、酒におぼれスノッブで俗悪な生き様、退廃的な生活を始めます。しかし精神の熱量は衰えずに持て余してしまうものだから、三島のいうような「未来に賭けない」ような『葉隠』的な生き方をしたいものだと心の奥底で思うようになりました。過去を乗り越え、現在に自分の全てを注力する、「朝起きた時に今日を死ぬ日と心に決める」そんな生き方を目指す考えです。

しかし、いまになって自分の感情に素直に向き合うなかでそんな考え方も変わりました。やはり私は人間と、誰かと関係し、歴史に爪痕を残したいのです。未来はより良いものであってほしいし、より良くすることに何か役割を果たしたい。人と人の関係する空間たる地球の歴史のどこかに、ほんの小さな爪痕でもいいから残したいのです。そのために自分の全精神を現在に投入したい、そんな意志の人間であることを辞められないのです。

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