私の中学生のころのバイブルに再会しまして、久しぶりに手に取りました。
『武士道』(新渡戸稲造、矢内原忠雄訳、岩波文庫青118-1、2011年)
いまはちょうどジブリの「君たちはどう生きるか」が上映されて世の中をにぎわせていますが、まさに10年前15歳の私は「どう生きるべきか?」に悩んでいて、とりあえず岩波文庫の青と三島由紀夫の小説でない書き物を読み漁っていました。
1869年明治維新、そこから30年後のフィラデルフィアにて西洋哲学や宗教・騎士道との比較研究として出された本書です。世界において日本のことが知られていない、あるいは偏見に満ちて理解されていることに対して、日本人に共有される精神性を紐解いて示すことを目的とした書籍でした。
武士道から学ぶことは、知行合一、知は行動を伴わなければ意味がないということです。知識とは道徳的感情に従属するものであり、そしてその道徳と知識を行動によって実践することのみを求める倫理体系であるということです。
武士道(シヴァリー)はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史の腊葉集中に保存せられているのではない、それはなお今我々の間における力と美の活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態をとらないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとに自覚せしめる。それを生み育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。
武士道の淵源
知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現れる時においてこそ真に知識となる
知識そのものは道徳的感情に従属するものと考えられた。
私は若いときからこういった行動至上主義の考え方に感化されたり、歴史の英雄や若い経営者が、無鉄砲に選択し行動しているような生き様に感化され、何かを思いついて判断を迫られたときには「まずやってみよう」という行動規範を自らに課していたように思います。特に新社会人のころくらいまではずっと思っていたのは、「選択肢がある場合、いまの自分にとって最も困難に感じられるような選択をする」というようなルールというか脅迫観念がありました。運動が嫌いだけどラグビー部に入った中一の自分、シャイで不器用だけど居酒屋バイトや不動産・保険営業に挑戦した自分、そんな逆消去法で生きてきた人生でした。その選択はいま思うと良い選択であったなと思っていて、その時点で迷うということは、きっと「こんな自分を変えたい」とか「こんな自分になりたい」という迷いに苛まれているなかでの迷いであるので、いまの自分の価値観に基づいて判断するのでなく、将来の自分から見てベストな選択をするような習慣づけになっていたのかなと思います。
そして色々な人生経験を経て、また本書を読みなおして少し思うのは、こういったストイック的習慣の前提として、倫理観・信念・知識といった「社会や自分はどうあるべきか?」という軸がないといけないなという反省です。最後に私の読書メモを載せますが、本当に良いことがたくさん書いてあって、モチベーションが上がり頑張る元気がわいてきました。考え方自体に感銘を受けるという面も大きいのですが、明治維新から30年後、海外から「野蛮なハラキリ文化」としてステレオタイプ化されていた徳川政権下で生きた武士階級の人間たちの生き方の源流を紐解いて、海外で出版したという熱意や思いにも心打たれます。そもそもいつから「日本人」という自意識が形成されたかということに興味があり、新渡戸が用いる「日本人」という言葉が海外の人からわかりやすい単語として用いたものであるのか、明治維新30年後には皆が海外のことを知り「日本人」という自意識をもっていたのかという視点もごちゃごちゃ出てきます。ともあれ2023年に生きる我々「武士」という生き方を簡潔にわかりやすく示してくれるのは最高ですし、私のようにモチベートされて高まり感銘を受ける人間もいるのです。
「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」
『葉隠』の一説ですが、昔は文字通り「生きるということは死ぬことだ」という無鉄砲の美学がありましたが、いまは色々な経験を経て「どう生きるかというのは、どう死ぬかということだ」という考え方に変わりました。それを再確認できる貴重な読書体験でした。
【読書メモ】
義
義は武士の掟中最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振る舞いほど忌むべきものはない。
義理=単純明瞭なる義務=「正義の道理」としての絶対的命令
勇
勇気は、義のために行われるのでなければ、徳の中に数えられるにはほとんど値しない。
…生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の勇とはいうなり
…勇気が人の魂に宿れる姿は、平静すなわち心の落ち着きとして現れる。平静は静止的状態における勇気である。
…実に勇と名誉とは等しく、平時において友たるに値する者のみを、戦時における敵として持つべきことを要求する。勇がこの高さに達したとき、それは仁に近づく。
仁
愛、寛容、愛情、同情、憐憫は古来最高の徳として、すなわち人の霊魂の属性中最も高きものとして認められた。
礼
・他人の感情に対する同情的思いやりの外に現れたるものである。また正当なる事物に対する正当なる尊敬、したがって社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する。何となれば社会的地位は何ら金権的差別を表すものではなく、本来はじっさいの価値に基づく差別であったからである。
・礼儀はたとい挙動に優美を与えるに過ぎずとしても、大いに裨益するところがある。しかるにその職能はこれに止まらない。礼儀は仁愛と謙遜の動機より発し、他人に対するやさしき感情によって動くものであるから、常に同情の優美なる表現である。礼の吾人に要求するところは、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことである。かかる教訓的要求が日常生活の些細なる点に及ぶときは、ほとんど人の注意を惹かざる小さき行為として現れる。
誠
信実と誠実なくしては、礼儀は茶番であり芝居である。
克己
一方において勇の鍛錬は呟かずして忍耐することを明記せしめ、他方において礼の教訓は我々自身の悲哀もしくは苦痛を露すことにより他人の快楽もしくは安寧を害せざるよう要求する。この両者が相合してストイック的心性を産み、遂に外見的ストイック主義の国民的性格を形成した。
→武士が感情を面に現はすは男らしくないと考えられた。最も自然的なる愛情も抑制せられた。
→日本人は人性の弱さが最も厳しき試練に会いたる時、常に笑顔を作る傾きがある。けだし我が国民の笑いは最もしばしば、逆境によってみだされし時心の平衡を恢復せんとする努力を隠す膜である。それは悲しみもしくは怒りの平衡錘である。