失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎、2021)

暇だなと思ってアポイントの合間に日本橋丸善をぶらぶらしているときに見つけました。サラリーマンに戻ってから毎日暇な感覚があって、そんな私が求めていたタイトルだったのでしょう。

キャッチーなタイトルで暇つぶし的に買ったのですが、割と硬派な内容でした。哲学史における暇と退屈を分析し、”疎外”と”本来性”の考えを整理し、結論はハイデガー批判から組み立てていくような内容でした。要約すると長いので止めますが、念のため記事の最後にメモをコピペで貼っておきます。

 

ふと思い出したのは高校時代の先生の話でした。その先生の座右の銘としてよく口にしていたのは「人生は暇つぶし」という言葉でした。東大出身で、なんでこんな地方のしょぼい高校の先生をしているのかなと思ったものですが、そんなことをちょいちょい口にしながら、カワサキのオフロードバイクに乗って自由な装いで生きていたように思います。その先生の他にも色々先生の話を思い出しますが、ラグビー部の顧問の先生も近しいことを言っていました。あるとき「なんで英語の先生になろうと思ったんですか?」と聞いたことがあるのですが、「成り行きや。」と一言だけ言っていたことを思い出しました。

私は当時の反抗期が社会全体に向いており、親や何かに対して一点突破で行動に表出しない分、世間的な装いとしては真面目だと思われていたと自己認識しております。表立ってそこまで反抗していなかったようには思いますが、そんな先生たちの言葉は適当に処理するというか、耳で聞いて忘れるくらいの重要性で聴いていたように思います。私の高校自体は当然に授業は聞いておらず、寝ていたか別のことをしているかそもそも行ってなかったですが、そんな人が幾人も居る、自由な高校だったなといまになって思います。改めて思うと、そんな環境や周りの人たちの助けがあって、今の私があるなと思うのです。哲学者になるべく旧書庫の本を取り寄せていた私に対して、「こんな難しい本をすごいね~」と言いながらも惜しみなく持ってきてくれた図書館の司書の先生や、不真面目な私を容認して向き合ってくれた先生方や、私の持て余した不のエネルギーをラグビーに向けてくれた仲間や、そんな人がなければ私は暴走行為をしたりどこかに飛び出していたように思います。

「人生は暇つぶし」「成り行きや」

この言葉は今になって思うと、確かにそうだなというか、私自身もそんな人生を生きていますが、高校生当時の私には「俺はもっと世間にかましてやるから見てろよ」くらいの尖りがあって馬鹿にしていたように思います。カールマルクスになりたかったくらいなので、世の中に何か強烈なインパクトを与えてやりたかったのです。当時から芸術的な才能はないなと思っていましたが、カールマルクスになれなかったら、甲本ヒロト三島由紀夫にもなりたかった高校生でした。そして26歳の今の私自身を俯瞰してみると、カールマルクス甲本ヒロトどころか馬鹿にしていた当時の先生たちより世間に何も影響を与えてないし、そもそも暇を持て余しているように思うのです。悔しさすら感じないので歳をとったのか、成長したのか、とりあえず丸くなったなと思うものですが、こうやって本を通して思い出したことをブログとして書き起こし、過去のことを意味づけを変えていく過程を示すなかで、せめて誰かに影響したいものです。ブログでも死んで評価されるタイプのものを残したいですね。ゴッホ小林多喜二的な。

日曜日にこれを書いているのですが、明日からまた不動産の仕事に戻ります。よりエキサイティングな興奮状態を引き起こし落ち着く、また面白い案件を引っ張ってくる。そんな暇つぶしに興じてきます。そしてまた土日になると、時間を持て余してくるので、こうやってブログを書いたり、仕事以外で暴れられるようなフィールドを探しに行くのです。最近は寒いので、来週は初の大分旅行で、念願の湯布院・別府でございます。「人生は暇つぶし」、楽しく退屈と付き合っていきます。

<メモ>

【暇と退屈】

・暇…客観的な条件によるもの

・退屈…主観的な条件によるもの

 →現代の消費社会は暇なき退屈=現代における疎外

疎外論

人に「何か違う」「人間はこのような状態にあるべきではない」という気持ちを起こさせる。ここまではよい。ところがここから人は、「なぜかと言えば、人間はそもそもはこうでなかったからだ」とか「人間は本来はこれこれであったはずだ」などと考え始める。

→「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿」というものをイメージさせる。これらを、本来性とか〈本来的なもの〉と呼ぶことにしよう。「疎外」という言葉は人に、本来性や〈本来的なもの〉を思い起こさせる可能性がある。

【本来性なき疎外論の組み立て】

①ルソーの自然状態論

自己愛…自分を守ろうとする感情。

利己愛…平等であるとの信念ゆえに生じる否定的な感情

→自然状態とは利己愛なき状態を観念的に意味づけるもの

マルクス

共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである。」

→「共産主義社会では」というところを読み変えればよい。これは実に示唆に富んだ一節であろう。 「欠乏と外的有用性によって決定される労働」が支配している社会では、「どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくこと」などできない。だからそれが廃棄されなければならない。

【暇と退屈の倫理学

ハイデガーの見解

①退屈の第一形式

何かによって退屈させられること。(ex.駅で待たされる)

→気晴らしと時間。時間による「引きとめ」状態、物が言うことをきかない「空虚放置」。

→自分の時間を失いたくないという狂気。

 ②退屈の第二形式

何かに際して退屈すること(ex.パーティーのとき)

→単純に空虚が満たされぬままになっているということではなくて、空虚がここで自らを作りあげ、現れ出て来る。簡単に言えば、外界が空虚であるのではなくて、自分が空虚になるのだ。周囲に調子を合わせる付和雷同の態度で投げやりになり、自分をその雰囲気に任せっぱなしにする。そういう意味で自分自身が空虚になるのである。ここには第一形式とはまったく異なる〈空虚放置〉が見出される。

投げやりな態度になり、もうこれ以上は何ももとめないという状態

→人間の生の本質。正気

③退屈の第三形式

なんとなく退屈だ

…周囲の状況も、私たち自身も、すべてがどうでもよくなっている。すべてが一律同然にどうでもよくなっている。

→人間(現存在)は自分に目を向ける。いや、目を向けることを強制される。ではそこに目を向けることを強制されてどうなるか? 人間としての自分が授かることができ、授かっていなければならないはずの可能性を告げ知らされる。この状況を突破する可能性、この事態を切り開いていくための可能性、その先端部を自分のなかに見出すことを強いられる。

→孤独と決断のよって第三形式を乗り越える

著者の退屈と暇の倫理学

・狩猟と農耕、定住革命。暇を持て余す生物学的人間。

・環世界の移動の柔軟性が人間

・退屈の第三形式の狂気。決断するために交流を絶ち、自らを孤独に投げ入れる結論への批判。

フロイト

快=興奮が抑制されること。

不快=興奮が高まること。

→つまり、何かが快いからそれを反復するのではなくて、反復するから 習慣が生じ、それによって快が得られるのである

著者の結論

→人間はそもそもものを考えないで済む生活を目指して生きている事実。気晴らしと退屈の入り混じった、習慣を形成する生き物である。退屈と気晴らしが入り混じった退屈の第二形式を生きる。

・「人間であることはつらい。人間であるとは退屈に向き合って生きることを意味するから。」

→人間の環世界移動の柔軟性を生かす。新たな習慣を獲得すべく、思考して興味の幅を広げることを楽しむ。