平野啓一郎は高校生の頃に『日蝕』というあえて文語体で書かれた小説を読んだ以来で、『滴り落ちる時計たちの波紋』と共にたまたま出会って手に取りました。三島由紀夫のような華美な文章をかみしめていくような話だった記憶はあって、話も結構グロかった記憶があり、『滴り落ちる時計たちの波紋』も純文学よりの作品でした。一方で『マチネの終わりに』では、こんなドラマにできそうな恋の話もあるんだなと思って読んでいました。久しぶりに甘い恋バナを聞いた感覚もあり、大人の恋の苦みも味わえて、楽しい読書体験でした。
私も気づけば27の歳になり、こんな大人の恋愛とかの感情の揺らぎを自分事として楽しめる年齢になってしまったんだなという悲しさがありました。本小説は蒔野聡史と小峰洋子という壮年で働き盛りかつ社会的地位のある男女が、本気の恋をするという話です。歳をとると経験を積み重ねて考え方や立場がソリッドに確立してくるなかで、突如として本気の恋愛というある種の動物的・衝動的な感情の奔流がそれを壊す勢いで出てきます。ただ過去の経験もあるから、その恋愛感情は一時的なことであると再確認し、周囲を取り巻く状況を論理的に頭で整理して、この恋を前に進めるべきでないと自分で自分を説得する術を備えていきます。ただ本気の恋は止められない。一方で、周囲の状況は過去40年近く積み重ねてきたものもあって、それが恋を阻害してくる。甘くて苦い、ベタですがそんな話です。
蒔野はそう言うと、少し間を取ってから言った。
「人は変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものなんじゃないですか?」
洋子は、長い黒い髪を首の辺りで押さえながら、何度も頷いて話を聴いていた。
「今のこの瞬間も例外じゃないのね。未来から振り返れば、それくらい繊細で、感じやすいもの。……生きていく上で、どうなのかしらね。でも、その考えは?少し怖い気もする。楽しい夜だから。いつまでもこのままであればいいのに。」
蒔野は、それには何も言わずに、ただ表情で同意してみせた。話が通じ合うということの純粋な喜びが、胸の奥底に恍惚となって広がっていった。彼の人生では、それは必ずしも多くはない経験だった。
……中略……
彼らの関係の中でも、この出会いの長い夜は、特別なものとして、この後、何度となく階層されることとなったからだった。
最後に名残惜しくかわした眼差しが、殊に「繊細で、感じやすい」記憶として残った。それは、絶え間なく過去の下流へと向かう時の早瀬のただ中で、静かに孤独な光を放っていた。彼方には、海のように広がる忘却!その手前で、二人は未来に傷つく度に、繰り返し、この夜の闇に抱かれながら、見つめ合うことになる。
私はここ2,3年で過去の意味付けを変えるということについて考える機会が何度がありました。生命保険の仕事をして人の生と死について考える機会が多かったのもあると思いますし、個人事業主として経営について或いは社会や身の回りの人との関係の仕方について真剣に考えたところに拠るところが大きいと思います。もっと過去に遡ると、大学の頃に取り組んでいた歴史学という学問は、事実を明らかにする学問ではなくて、過去のある時点の過去に対する解釈を明らかにする学問だったように思います。過去に残された文書は、更に過去のことを記録するものでありますが、その記録された時点の解釈や思考の枠組みを明らかにする、或いはその記録者の解釈を濾過して除外し事実のみを取り出す、そんな作業を必要とする学問だったように思います。そんな学問に向き合い過去の意味付けを取り出すトレーニングを経て、私自身が働いたり、恋したり、色々やっていくなかで、自分自身の意味付けを変えることができるようになったのだと思います。
最近、書きたい恋に関する題材を一年くらい寝かしているのですが、ちょっと暇になったり、『失われた時を求めて』を読破して、書きたい気持ちになってきました。「毎日マドレーヌを食べたら、彼も何も感じなくなるわ」みたいなセリフが本書でも出てくるのですが、あのマドレーヌ的な感動は、きっといつかまた体験するんだろうけど、いまのうちに書き残したいなという想いがあります。一方であの無意識的な感性で捉えた感動を、理性を以て捉え直した瞬間に、もうそれはあのときの感動でなくなるのではないか、陳腐化してしまうのではないかという恐れもあります。
でも昨日久しぶりに車を運転して旅行に出かけて死にかけて、死ぬ前に残したいなという想いになりました。18で出会った友人達も、皆いい歳になってて、変わらないけどなんか違って、いつかはあんまり会わなくなるんだろうなというスタンド・バイ・ミー的な感情を得ました。同じ大学などの同質な水に満たされた桶に飼われていた大学時代から、違う道を歩むいま、この懸隔は大きくなり続けるという確信。その違いを刺激や遊びとして楽しめるのか、或いは大学という同族で群れてた感性から抜け出せず会わなくなったり、昔の思い出をしがむための同窓会だけになるのか。わからないですが、今を楽しみ積み重ね、過去の意味付けを問いかけ続けていこうと思います。未来はわからないですが、親よりは長生きして、誰か忘れずに想い良い影響を与え続けていこうかなと思うのです。
蒔野は、自分の中にある、洋子に愛されたいという感情を、今はもう疑わなかった。胸の奥に、白昼のように耿々(コウコウ)と光が灯っていて、その眩しさをうまくやり過ごすことが出来なかった。
洋子も、自分を愛しているかもしれない。――彼女の言動に、そうした徴を見出す度に彼は苦しくなり、そうではないのではと思い直す時にも、結局、苦しくなった。そして自分がそもそも、彼女の愛に値する人間かどうか、むしろ冷静であるために考えようとして、却って逆効果になった。
なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、愛したいという情熱の枯渇より、愛されるために自分に何が欠けているのかという十代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである。
美しくないから、快活でないから、自分は愛されないのだという孤独を、仕事や趣味といった取柄は、そんなことはないと簡単に慰めてしまう。そうして人は、ただ、あの人に愛されるために美しくありたい、快活でありたいと切々と夢見ることを忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体、何だろうか?
蒔野は恐らく、最初に会った時から、洋子を愛し始めていた。あの夜は、もうそのようにしか振り返り得なかった。そして、その時に抱いた彼女へのあこがれは、今では乗り越えるべき彼女までの距離となっていた。
久しぶりに蕎麦殻の枕から頭を起こすと、窓から見える松戸の入道雲は旅先で見るより小さい気がする。雨の降りそうな気配も排気ガスと土埃のむせ返る臭いによって知らされる。そう現実に引き戻されると、箱根はやはり遠い場所だと思われて、少し悲しくなる。芝と森の匂いの残る衣服を洗濯機に入れたら、何もない日曜日であることを思い出す。とりあえずカーテンを締め、松戸の空を締め出し、眠ることにした。