失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『人新世の「資本論」』(斎藤幸平、2020)

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

年越しは最近は知り合いの店で越すことが多く、そういえば親戚や家族とは越していないです。おばあちゃんが亡くなり、保険の仕事をやめてお金を借りに行く理由がなくなって、実家に寄り付かなくなった自分のことをやや冷たいとは思うが、そもそも父はさみしがりなんだと思います。まあ「家族と会える時間を人生で均すとめちゃ短いよ」理論でいうと、もっと家族に会いに行くべきなのかもしれない。今年も家族へのあいさつはお歳暮で済ませてしまったので、暖かくなったら顔でも拝みに行こうと思います。

年末は忙しくはありますが、自分の時間の使い方としては本当はゴルフの練習をしないといけないです。いまベストスコアは180ですが、月末までに130くらいまでにはしないと迷惑をかけてしまうなと思うのです。いやはや、結果たまったラジオを聴いたり、本を読んだりして、ゴルフから逃げている年末年始です。

新年の心意気みたいなのを書こうかなと思いましたが、忙しくてあんまり内省的なスイッチが入らないので、ちょっと前に読んだ本で面白かった本です。

技術革新によって進歩と持続可能な社会(発展途上国の経済成長、天然資源の保全、気候変動への対策)の実現が両立すると信じられてはいるが、それは無理であるということを論じています。特にグリーンニューディールによって、全世界の経済成長と環境保護を両立できるという現在の世の趨勢を批判しており、”脱成長”と”コミュニズム”こそが真に持続可能な社会を実現する方法であると結論付けています。資本主義の世では、かつては<コモン>として共有されていたすべてのもの(土地、水、食糧...etc.)に値付けがなされ所有がされています。所有と独占という概念は、必要な資源が必要な人にいきわたらず、かつ無駄に消費される世界を作っているというなかで、市民によって<コモン>を再建するようなことを目指す議論が進んでいきます。

マルクスの『資本論』を「脱成長コミュニズム」という立場から読み直すことが必要なのである。……(中略)……この構想は、大きく五点にまとめられる。「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」、「画一的な分業の廃止」、「生産過程の民主化」、そして「エッセンシャル・ワークの重視」である。

そして最後にフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を引用し、「歴史を終わらせないために」も、脱成長コミュニズムに向き合う必要があるとまとめています。

これを読んで、カールマルクスになりたくて大学に行った男である私としては、感情的にはかなり共感できる内容でした。<コモン>というか助け合うべきときに助け合う仕組みや文化があれば、もっと人類は幸せになるのではないかと、常々考えていました。特にエッセンシャルワークの重視は、いまの世に必要であると考えており、核家族による子育てや介護は、生物学上の人間の行動としては負担が重たすぎるし、経済学的な解決策としてのエッセンシャルワークも普通の収入の過程には大変です。何か協力できるようなコミュニティ(世話焼きの近所のおばさんや親族、村の長老的な)が復権しないと生きづらいよなと常々考えておりました。そもそもホモサピエンスは、群れの中に長老が多く知識を共有し、子供の世話を群れで分担できたのが、生物として発展した一因であるとも考えています。そんなことを考えていたことを思い出します。

しかし時を重ね、いまの私の考えでは、本書の社会は現代社会で実現するのは限りなく不可能に近いという考えです。利便性は人間をよりいっそう個に分断しています。経済的なよるべがあれば、すべてを発注することで一人で生きていくことはできるからです。かつてのホモサピエンスは仲間と協力しなければ食糧にすらありつけなかったし、産業革命以後ですら家族という単位で協力しなければ生活は困難でした。しかし家電が現れて家事が外注されるトレンドは一層すすみ、いまでは家でスマホを操作するだけで食事は可能、洗濯も朝に洗濯機で乾燥までセットすれば何もする必要がありません。子育ても外注が進んでいます。フランシス・フクヤマも言っていましたが、人間の本能は人より上回りたいというものです。こんな世の中で、人間の本能を押し殺して<コモン>を復権させるのは、かなり難しいのではないかと考えています。素朴な感覚でいくと、このビジョンを掲げて旗を振れる人はいるわけないのです。<コモン>の復権は、ムラや家族の復権ですが、それはなかなか難しいように思います。だって現代はそれの否定から生まれているのですから。人付き合いは面倒くさいけど、それのありがたみも当然ある。それはある種の強制力が働かないと難しいように思います。それこそ宗教などによって、「<コモン>って大事だよね」という共通了解を作り直すことなども一つの観点ですが、話題になった新興宗教法人はそういう志向が強いように思いますし、政策にも反映させたいという思いはあるのかもしれないですね。

「自分の周りの人が幸せになってほしい」と皆が思い、助け合う世の中であってほしいなと常々思いますし、みんなそう思ってはいるでしょうが、なかなか歯車はかみ合わないですし難しいものです。

まあでもこうやって考えが行き詰まって困ったら、私はこう考えることにしています。

この宇宙はいつか収縮して終わるでしょうし、もっと近い将来に太陽が膨張して地球は飲み込まれるはずです(とはいっても50億年後くらいですが)。もっというと人間が出てきて50万年も経ってないですし、文明と呼ばれる記録が残る世の中は3000年も経っておらず、産業革命から200年です。人間は賢く愚かで、好き放題勝手に生き、かつ生きることの理不尽さを飲み込んでなんとか生きてきているわけです。どの時代の人間も自分が一番幸せ者だと思う一方で、辛いことがあるとそれを乗り越える宗教・祈り・嘘・言い訳といった処方箋を自分に処方します。すごい生き物です。

そう考えると、私の悩みや現代社会の課題はまあまあしょうもないものに見えてきます。ともあれ私は特定の宗教を信仰してはいないですが、せっかくこの世に生を受けた以上、私の身体が何かのためになってほしいなと思うものです。

 

 

『読書』(西田幾多郎、1938)

最近も”読書”はしているのですが、ブログを書くモチベーションというか書こうというスイッチが入らずにいます。自分の中の言明しがたい何かドロドロしたものを書くようなのが、私のブログを書く源泉でしたが、いまはあまりそんなものがなくなってきた気がします。ある種の意味では自分の中の精神の相克が低減し幸せになったともいえるし、ある意味では面白くない人間になっていっているのかなと思います。

「読書に始まる自伝的ブログ」というテーマでやっていますが、”読書”という行為は、何かをインプットする行為でもありつつ、同時にアウトプットをしながら自身と対話をするというものであるという考えがあります。西田幾多郎の『読書』は、「”読書”とは何か」ということについて思索をめぐらすエッセイです。ここでは本当の意味で”読書”をするというのは、著者の考えを理解することであり、理解するには自分自身がそのステージにいかなければならないということを教えてくれます。過去に難しくて読まずに投げ出したり、適当に目を通した書物で、いまだになぜか手元に置いてあるものは、あるときふと読み進めると見え方が変わってくるように思います。それは私にとって『失われた時を求めて』であり、『存在と時間』であり、『死に至る病』でありました。

最近、妙に『ユリシーズ』を読みたくなりました。昔に軽く手にとったものの、全く読む気が起きずに放置したものでしたが、私のなかのリトルカネコが「手に取れ」と囁いてきたのです。前提として『オデュッセイア』も読みたいなと思い、年末読むために購入しました。年末年始、”読書”を通して、『ユリシーズ』と格闘していこうと思うのです。

『闇金ウシジマくん』(真鍋昌平、2004)

最近、YouTubeのボイス漫画で出てるのを見つけて、久しぶりに読み返しました。高校と大学の頃読んで、「こうはなりたくないな」とか「こんなことあるんか!?」みたいに考えたものの、いま改めて読むと沁みますね…

www.youtube.com

人間みんなさみしいし、ただ生きるだけでも大変です。そんな単純な事実を突きつけられているようで、辛いけど読んでしまう。そんな作品ですね。

そもそも生きるのが大変というよりも、人間の感情と現実・論理の相克というか、感情を諦めてつまらないロジカルな現実を生きるか、破滅してでも感情のままに生きるか、感情のままに生きられるように現実を変えるか、その3パターンしかないと思うのですが、その選択をするのが大変なのかもしれないです。

私はつまらないロジカルな現実を生きながら、ブログでの現実逃避やちょっとした小さな嘘の世界を楽しむことで満たしているのかもしれないです。私は最近気づいたのは、営業の仕事は楽しいし向いていると思うけれども、私は人間の感情にしか興味がなくて、売れた売れないではなくて、人の感情を動かすことにしか興味がないのかもしれないです。(不愛想なおじさんの笑顔をみることが好きなだけで、たまたまそれで営業の仕事に嚙み合って仕事がうまくいっているだけな気がしています。)

思った通りにいかない人生で、思った通りにいかない人間の感情を相手にしながら関係していく。そして思った通りにいかない他者の感情と自分の感情を楽しむ。これが実は私の人生の本質なのかもしれないです。

私は世の中のさみしさや生きづらさ・いたたまれなさをより少なくしたい。そうすることは、私の生まれてきた意味だと思う。そして私自身がハッピーになる近道だと思っています。

 

冬だから寒くて人恋しい。

会いたい人に会いたいときに会い、その人の感情をプラスに振れさせたい。そんな誰も観測していない勝負で勝って、自分と相手を喜ばせたい。そんな人生にしたいものです。

ビジネスの論理の世界と私の感情の世界の相克、それと向き合う論理のインプットである読書とアウトプットのブログ、或いは感情を乗り越えるお酒での逃避。

酔うと色々ぶれていきますが、お酒はほどほどに、感情燃やして生きていこうと思います。

『死に至る病』(キルケゴール、1849)

今日も今日とてクソみたいな人生を送っております。お酒を飲みすぎて海馬が委縮しているのか、無理がたたって昨日は24時間のうち17時間を睡眠に費やしておりました。上を向いて、テキーラを口に注いでもらう遊びを思いついて楽しんでいたし、翌日も普通に仕事をしていたのですが、週末になって脳が休憩を要求していたようです。クソみたいな週末を送っていると、揺り戻しで”かしこさ”を高める方向に精神が向き、過去に脳のしわに刻んだ本と対話をする機会を求めるようになるのです。

学生当時の私は生きにくさが高じて哲学を人生のコンパスとすることを求め、必死に咀嚼し吸収しようとしておりました。そんな自分にとって一番の人生の指標となった書が『死に至る病』でした。

無限性の絶望⇔有限性の絶望

可能性の絶望⇔必然性の絶望

この相克のなかで、自身が引き裂かれ絶望していくのです。いままさに自身を引き裂いている絶望も、怠惰な必然性・有限性の絶望を俯瞰し、それを可能性や無限性の世界になげうっても見えてくるものがないなかで、絶望が深まっているのかもしれないです。

そしてキルケゴール先生は、絶望の救済には”神への信仰”が有効であると教えてくれています。ここで難しくなってくるのは、私のなかの神(=道徳や絶対的な法則)は「反省し節制しなさい」という言葉と、「まあ気にせんでええよ」という言葉と、両方を投げかけてくることです。

結局、絶望に常に相対せにゃならんのが人間という生き物なのかもしれないです。

テキーラを注いでもらう自分を律する力と許せる力。禁欲的な行動によって未来をよくしたい自分と刹那的な快楽を満喫できる自分。適度に使い分けて生きていこうと思うのです。

<追記>

mgramという心理分析のアプリを久しぶりにやったら自己愛サイコパスだと診断されました…たしかに自分語りをこれだけ継続してできるということは自分が大好きすぎるのかもしれないです。

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『「いき」の構造』(1930、九鬼周造)

うちではクサガメを飼っていまして、最近の寒さに辛そうです。変温動物は季節の変化に敏感です。ベランダの広々としたビオトープ的な暮らしをいったんやめて、屋内の暖かい水槽を用意してあげなければいけません。

そんなこんなで今週の三連休はゆっくり掃除をしていました。大掃除に近いくらいしっかりやりまして、カメの生活環境準備に加え、コンロをどかして掃除したり、多くのものを捨てたり、色々やりました。掃除やアイロンがけだけの週末、六畳一間の和室から出ない生活、しみったがれてやります。世間では行楽シーズンらしいですが、なんのその、冷えた安ワインと雑な自家製ピクルス、丁寧な暮らしで対抗しております。私は昨月2件の不動産を購入決済したのに加え、勢いで夜の店でお金を使いすぎた関係で、手元資金がギリギリなのです。生命保険P社、私の前職でもありますが契約者貸付なる機能を活用し、なんとか生きながらえることができました。いつも一番の敵は昨日の自分です。そういう訳で、今月・来月は大人しく丁寧に暮らそうと思うのです。

そしてお金がないので、kindle青空文庫無料シリーズで心の渇きを癒すのです。

「いき」つまり”粋”と呼ばれる、日本人独自の概念について哲学的なアプローチで分析していく話です。内包的構造(=粋とは何か)・外延的構造(=粋を構成する要素や反対概念)を分析したのち、自然的表現(=日常生活における粋な表現)と芸術的表現(=芸術作品・表現における粋な表現)を分析していきます。「いき」には「媚態」「意気(=意気地)」「諦め」という3つの特徴があるとします。ブログにすると長いですが、本は短くてわかりやすいので、簡単にメモを残しておくと、「いき」とは下記のものです。

一言にしていえば、媚態のための媚態である

それを構成する3要素は下記のように関係しています。

媚態とは何であるか。媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。

第二の徴表たる「意気地」は理想主義のもたらした心の強みで、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを提供し、可能性を可能性として終始せしめようとする。(……中略……)媚態の二元的可能性を「意気地」によって限定することは、畢竟、自由の擁護を高唱するにほかならない。

第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。(……中略……)媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依が運命によって強要され、 可能性の措定が必然性によって規定されたことを意味している。

私は祖父が江戸っ子で”いき”な人でした。背も高いですし、土木の会社を切り盛りしていました。口が悪かったですが、いま思うと愛情表現の下手なキュートな一面もあったようにおもえます。私は自覚はないですが、口が悪いとよく言われるのですが、それは祖父の影響を色濃く受けているのかなと思うのです。

部屋を見渡すと、台風の雨で暗く窓も吹き飛んでしまいそうです。けち臭くしみったれた野暮ったい人生。”いき”な男になれるよう、今週も頑張っていこうと思います。

今週のお題「急に寒いやん」