失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『読書』(西田幾多郎、1938)

最近も”読書”はしているのですが、ブログを書くモチベーションというか書こうというスイッチが入らずにいます。自分の中の言明しがたい何かドロドロしたものを書くようなのが、私のブログを書く源泉でしたが、いまはあまりそんなものがなくなってきた気がします。ある種の意味では自分の中の精神の相克が低減し幸せになったともいえるし、ある意味では面白くない人間になっていっているのかなと思います。

「読書に始まる自伝的ブログ」というテーマでやっていますが、”読書”という行為は、何かをインプットする行為でもありつつ、同時にアウトプットをしながら自身と対話をするというものであるという考えがあります。西田幾多郎の『読書』は、「”読書”とは何か」ということについて思索をめぐらすエッセイです。ここでは本当の意味で”読書”をするというのは、著者の考えを理解することであり、理解するには自分自身がそのステージにいかなければならないということを教えてくれます。過去に難しくて読まずに投げ出したり、適当に目を通した書物で、いまだになぜか手元に置いてあるものは、あるときふと読み進めると見え方が変わってくるように思います。それは私にとって『失われた時を求めて』であり、『存在と時間』であり、『死に至る病』でありました。

最近、妙に『ユリシーズ』を読みたくなりました。昔に軽く手にとったものの、全く読む気が起きずに放置したものでしたが、私のなかのリトルカネコが「手に取れ」と囁いてきたのです。前提として『オデュッセイア』も読みたいなと思い、年末読むために購入しました。年末年始、”読書”を通して、『ユリシーズ』と格闘していこうと思うのです。