三島由紀夫激推文学少年だった私が、大学から演劇部という精神不安定者の巣窟に足を踏み入れてしまったのは、この「卒塔婆小町」の収録された『近代能楽集』の影響に依るところが大きいと思います。
高校の頃、小説のなかでも戯曲という台本風の形態に興味を持っており、泉鏡花や木下順二、安部公房などに熱中しておりました。私のなかでこの3人は戯曲の人だというイメージが勝手にあり、あんまり普通の小説は記憶に残っていないです。個人的な戯曲ブームのなかで、「そういえば三島由紀夫の戯曲はないのかな?」と思い、出会ったのが『近代能楽集』です。
『近代能楽集』は室町時代から伝統芸能である能を、現代の文脈に落とし込むという実験的な作品集です。
私は一度手にしたときから虜で、特にこの「卒塔婆小町」が一番好きで、美輪明宏の舞台も観に行きました。田舎の学生には高いお金でしたが、最高の舞台で、私の人生の少なくない場面でハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」が流れるのはこの影響に違いないです。
能の筋書きの多くは、彼岸と此岸とが混ざり合う脚本が多く、翻案元の能の「卒塔婆小町」も本作も同様です。汚い乞食としての老婆と絶世の美女の小野小町が彼岸と此岸の間で交差します。加えて原作では僧侶が語り手・ストーリーテラーであり続けますが、本作では語り手である酔っ払いの男性が深草少将と交差します。
いつもなんでこの作品が好きなんだろうと読み返す度に考えます。結論、恋という個別具体的な人間心情のテーマが、普遍性を持つのが好きなのかなと思うのです。
百夜参りの100日目に亡くなった深草少将と、成仏できずに漂う小野小町。これはある個人の個別具体的な悲劇ですが、純粋に心理的な側面を切り取った恋というのは、きっと普遍性を持つんじゃないかなと思うのです。深草少将が百夜参りの最終日に息絶えたように心が冷めて恋が死んだり、小野小町が亡霊になったように昔切り捨てた恋に縛られたり。
個別具体的な話が、時間も空間も超えて普遍性を伴って各人に迫ってくる。そこが魅力なのかなと思うのです。
コーヒーを飲みすぎて、眠れない夜。
気付くと、自伝でなくただの三島由紀夫大好きトークで終わってしまいました。
最近は自分にも他人にも嘘をつかなくなった気がして、「仮面舞踏会」が頭のなかで流れることはほとんどなくなりましたが、こんな眠れない夜は同類の嘘つきと仮面を被って踊りたいものです。