失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

「眼にて云ふ」(宮沢賢治)

今日は長期出張で、記事の書き置きもなくなりまして、昔読んだビジネス本から、隙間を見つけて一生懸命記事を書いていました。しかし、編集投稿時にアプリがクラッシュし、記事が飛びまして、気持ちが萎えています。ただ毎日記事をあげるという自分との約束を破るのが嫌だなと思い、すぐに読み返せる詩集の読書メモから、一つ取り上げたいと思います。

宮沢賢治の詩集からで、とても印象に残っていて、好きな詩を一つ。

 

眼にて云ふ


だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いてゐるですからな

ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですからそこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといゝ風でせう

もう清明が近いので

あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに

きれいな風が来るですな

もみぢの嫩芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波をたて

焼痕のある藺草のむしろも青いです

あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけばこれで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

たゞどうも血のために

それを云へないがひどいです

あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。

ーーーーー

昔、中学生も頃に伊坂幸太郎原作の漫画で引用されていた詩であったと記憶しています。殺し屋のバトルものの話であった気がします。死ぬ姿というのは誰にも想像つかないなと思っておたのですが、リアルティをもって迫ってくる恐ろしさと同時に、死への羨望を感じるほどの清らかな心地よさが迫ってくる詩です。

 

 

そんな詩を読み返すと、忘れかけていた記憶が蘇ってきました。それは去年のちょうど同じくらいの時期、6月の上旬頃だったと思います。保険が売れなすぎて、死のうかなと思った日です。入社前に貯めてきた軍資金も底をつき、アポイントも入ってなくて。とりあえずこの状況から逃れたい。よくわからないけど、鈍行で行けるまで遠くに行こうと思って、上野駅から常磐線に乗りました。我孫子を越えるとほぼ乗降客もおらず、ゆっくり座って思いに耽ることができます。もっと早く進まないかなと思う頃に終電取手に到着です。そんな取手で乗り換えて土浦を越えると、神立駅です。そこは街が消滅し、駅前も田園地帯の駅。気付いたら、随分遠くまで来てしまったなとやや不安を覚えるものです。そんな時間も数十分で、トンネルを越えると大都市である水戸が出てきてきます。そこには見慣れた東京に近い風景で、遠くまで来てしまった不安は解消されます。そして勝田で終点なのですが、乗り換えて栃木方面か福島方面に行く、あるいは千葉経由東京方面に戻ることを選択できます。ここまでくるとちょっと心が落ち着いてくるというか、また都市部という見慣れた風景を捨てるのが怖くなってくるのですが、「行こう」と腹を括って、福島方面に向かいます。決意したは良いものの、田舎の駅のホームで1時間くらい待ちぼうけを食らい、やや心が萎えます。やっといざ乗り込むと、日立や高萩など聞いたことのある駅名が多く、常に海と工業地域や原発を背景に背負って、景色を楽しみながら進むことになります。そして工業地域を越えると、どんどん鄙びてきて、北茨城市に突入。昼過ぎに上野を出たのに、もう夕方も近づいてきます。どんどん不安になってくるなかで、茨城県最後の駅、大津港駅に着きました。大津港駅までくると、あと一駅で福島なのですが、路線図を見ると次は勿来という駅です。「来る勿れ」ようは「来るな」という意味の駅で、大昔は夷である東北との関所があったようです。何か意味性を感じ、そこはかとない不安というか恐怖を感じ、大津港駅で、扉が閉まるギリギリで駆けおりました。

 

そんな大津港駅は、ぎりぎり駅前にコンビニがあるような駅だったので、金麦ロング缶3本と、普段タバコを吸わないのにピースを買って、海に歩きました。結構な距離だったと思いますが、くねくねとした細い道をずっと歩き、誰も居ない河口近くの着きました。そんな偶然と苦労を重ねて到着した海なんですが、北茨城の海は私の想像する海とも違うものでした。というのも私は千葉県市川市内房の人間だったので基本的に港湾の和やかな海が原風景としてあります。海とは温かく迎えてくれるものというイメージだったのです。しかし北茨城の海は九十九里側の外房や大洗の海とも違って、独特な冷たさと荒々しさの印象で、やや失望しました。きっと黒潮も北茨城までは北上してないというか、千葉を離れるとぴったり陸に沿って流れていないんだと思います。そんな失望もいだきつつ、なんだかんだ海は良いもので、沈みゆく太陽を見ながら、砂浜で金麦を飲み、これで終わるのも悪くないかもと思ったものです。そんなこんなで、最期の日はタバコを吸うもんだと思っていたので、ピースの封を切って火をつけようと試みますが、風が強くて火がつきません。試行錯誤の末、やっと火がつき、万全の状態で吸ったら、想像してたタバコとは違くて吸えませんでした。喉が身体が、拒否をしていました。手元を見ると缶ビールもまだ1缶も飲み終わっておらず、封を切らずに2缶も置いてある。しかも日は沈み、完全に暗くなってくると、海の近く風が強くては寒いし、何より飲み込まれるようなオーラに変わってきて不安になってきます。もうすることもなくて浜辺で寝そべっていると、何をしにこんな訳のわからないど田舎に駅に何時間もかけて来て、そこから1時間近く歩いたうえに、まずいタバコと酒を飲んで、夏なのに寒さを感じないといけないのか、そこはかとない怒りが襲ってきました。そのとき、何かとわからないけど吹っ切れまして、「もっと頑張ろう」と決意しました。それからもっと大変なことが続きましたが、「死のうかな」と思ったのはその日が最後な記憶です。

 

出張先の鹿児島の海は、港湾の海で私の好きな海です。適当に短い記事を書こうと思っていたのですが、鹿児島の穏やかな波の音を聞きながら、思い出して結局ちゃんと書いてしまいました。健康に生きたいものです。

 

『ウメ子』(阿川佐和子、2002)

この本には割と最近に出会った気がします。保険の仕事をしているときに上司が「阿川佐和子を知っているか、彼女のヒヤリング力は本当にすごいから聞いたほうがいい」と言っており、帰り道の古書店で”阿川佐和子”コーナーで目を引いた本として『ウメ子』を手に取りました。

主人公の幼稚園児の女の子が主人公で、ウメ子という姉御肌で不思議な魅力のある少女と出会い、ウメ子との様々なエピソードから生い立ちに迫るというストーリーです。家族だけが全てという世界から、幼稚園という自分と同世代の人が集められた場所に放り込まれ、今まで会ったことのない人と出会い、成長し価値観に影響を与える。人生ステージが変わる毎に味わう感覚ですが、それを初めて味わうときのことを、思い出させてくれる小説です。

 

しかしそんなことを思いながら、あとがきで著者の阿川佐和子について触れている箇所を読むうちに、一番強烈に思い返された記憶は、高校生の朝の記憶でした。高校生の頃、土日の部活に行く前にTVで「サワコの朝」というテレビを観ていたことを思い出しました。

 

当時のカネコは同世代にしては珍しい、スマホを持たないteenagerを過ごしておりました。中学生の私は、スマホを持たないが故に時間を持て余し本を読む。或いは、心理的な壁にぶつかる度に答えを探しに本を読み、内なる自分と対話を重ねる。小学生の頃から読書好きであったものの、中学生の終盤頃には文学少年として完全にキマった状態にあったように思います。そんな中学生を経て、高校生になると部活動が忙しくなり、ラグビーにしごかれにしごかれる生活を送るようになります。中学性の頃からラグビーをやってはいたものの、そこまで辛いと感じたことはありませんでした。しかし高校のラグビーは別世界で、青年の身体つきをした猛者と本気のコンタクトをし、身体を限界まで苛め抜くような環境となります。一方で勉強面も別世界に変わりました。中学時代は全く勉強していないでも済んだものの、勉強をしないとそもそも進級できない厳しい環境となります。肉体的な疲労が蓄積され、頭も限界まで酷使する。体力を持て余すことのなく、時間の遊びもない生活となりました。幸いカネコという男は、かなりイタイ人間であったので、カール・マルクスになるための”研究”に取り掛かる時間も必要で、いわゆる暇潰しと呼ばれる行為はそんなに必要ありませんでした。しかし、完全に社会から置いて行かれるわけにはいけないなという感覚も残ってはいたので、スマホは持たなくとも、偶にはテレビくらいは観たいなという欲求はありました。そんななかで、リアルタイムで社会の情報を得る手段というのは二つに限られており一つはiPod nanoで聴けるPodcastラジオであり、もう一つは朝のニュースやTV番組でした。朝は7時45分には家を出ますし、夜は部活を終え22時頃に塾から帰ると、疲れ果てて寝るのみです。時間と場所を選ばないPodcastは関係ないですが、テレビというと家に居る朝の時間しか観られないものでした。そんな当時に平日のニュース以外に観ていた記憶があるのは三種類の番組で、土曜日は「はやく起きた朝は…」「ボクらの時代」、日曜日は「サワコの朝」でした。日曜日というと、ラグビーの試合が組まれているケースが多く、遠くまで電車でいかねばならないことも多い日です。いつもより早く朝ごはんを食べ、試合という戦場に向かう心構えをしていると、阿川佐和子さんがテレビに出てきて話はじめます。アイスブレイクとゲストの紹介が終わる頃には、もう家を出る時間になるのですが、家族が誰も起きていない朝に阿川佐和子さんに送り出されるような気持ちで、試合に向かっていたようなことを思い出しました。

 

そんな私も大学生となり、一人暮らしとアルバイトを始めてから、やや反社会性が薄れていきます。一人暮らしのなかで、主婦的な要素を兼ね備えていき、”ていねいなくらし”への憧れが芽生え、ESSEやVOGUEを読むような方向性に傾いていきます。今思うと、阿川佐和子さん、そして「はやく起きた朝は…」の松居直美さん・森尾由美さん・磯野貴理子さんの影響が多いにあったように思います。

 

幼少期の記憶と重ね合わせながら読んだ小説ですが、そんな忘れかけていた高校生の記憶を呼び起こしました。26歳になった現在でも、社会という”戦場”へ毎日赴くわけですが、一方で”ていねいなくらし”も全うしていきたいと思っています。朝くらい”ていねい”に暮らそうと、一杯の水・一枚のトースト・一本のヤクルトを摂取します。そんな時間も終わると、阿川佐和子さんのように送り出してくれる人はいませんが、今日もなんとか”戦場”へ向かいます。

 

 

『夏草の賦』(司馬遼太郎、1968)

長曾我部元親の一生を描いた歴史小説で、小学生の頃に読んで虜になった本です。父は司馬遼太郎が好きだったのですが、私は当時あまり司馬遼太郎が好きではなく、祖母が司馬遼太郎アンチと知り、この感覚が私だけでなかったと知ったのは、少し嬉しかったです。なんで私が司馬遼太郎の小説があまり好きではないかというと、作者の取材エピソードや書いている現在時点からの意見が散りばめられているからです。小中学生時代私には、この行為が没入感を損なうもので、「粋でないな」と感じたものです。そんなぷちアンチのですエピソードを持つ私ですが、『夏草の賦』は本当に大好きで、久しぶりに古書店で手にとって、色々な思い出が蘇ってきました。

本作は戦国時代の土佐の領主、長曾我部元親の一生を描いた作品です。織田信長との権謀術数による協力・敵対の立ち回り、豊臣秀吉の軍門に下り圧倒的な戦力で九州平定に携わる様子、どれをとってもカッコよいのが長曾我部元親です。カッコよさの源泉は、戦国武将としての力強さに加え、知的で鋭い内省的な面があると思っています。そしてもう一つの面として、非常に人間らしいというか等身大である面が、人を惹きつけるのだと思います。豊臣秀吉の軍門に下り、牙を抜かれたようなセカンドライフを送るようになります。それでもなお才覚は衰えず、跡継ぎとなる長男に目にかけて生きていくのですが、その長男を失います。それから生き甲斐を失った元親は亡くなり、天下分け目の関ヶ原合戦となるのですが、当主盛親は判断を誤って西軍についたがために、お家おとりつぶしとなり、長曾我部家は歴史から消滅します。

 

そもそもストーリーやキャラクターの魅力もあると思うのですが、私はこの作品と司馬遼太郎の文体、つまりときどき現代社会からの俯瞰に引き戻すようなエピソードの挿入が非常にマッチしているのだと思います。当人たちには悲劇ではあるのだけれど、大いなる歴史の流れのなかで翻弄されることは、どこか俯瞰でみると滑稽というか他人事で、少しの同情と切なさの先に美しさを感じる。そんな小説です。似た感覚として、『子午線の祀り』という舞台を大学生の頃に観たときと同じ種類の感動を味わいました。野村萬斎さん演出・出演、世田谷パブリックシアターにて上演された舞台です。平家物語を描いた作品なのですが、セリフが平家物語のように削ぎ落とされ、身体表現も能のようにミニマムで、まさに引き算の芸術である舞台なのですが、冒頭と最後に異質なナレーションが入ります。そのナレーションは、位置と時間と結末を淡々と告げる天の声です。あたかも全て決められた運命に沿って動く人間を観察するような冷静さ・突き放した態度が、そこには現れていたように思えます。この舞台を観た際、感動してしばらく立たないで噛み締めていたことを思い出しますし、この舞台や野村萬斎さんについて沢山語りたいところではあるのですが、『夏草の賦』との共通項は「大いなる歴史を前に人間は無力である」というところにあると思います。

 

「大いなる歴史を前に人間は無力である」というのは私の中に刻まれた思想ではあると思うのですが、言葉として受け入れたのは高校生の頃で、三島由紀夫豊饒の海四部作の第一部『春の雪』の清顕と本多の会話のシーンで衝撃を受けたのがきっかけです。『夏草の賦』を読んでいた小学生の頃はそんな概念として捉えてはいなかったのですが、いま思うと原点はここにあると気付かされた次第です。

 

運命は変えられないというか、大いなる歴史の前では思い通りにいかないものではあると、いまだに考えてはいるのですけれども、過去に対しては自分の解釈や意味付けを変えることで、未来に対しては私の行動が絶対に誰かに影響すると信じて行動することで、何か良い結果が出るというか、現在を生きる私にとってはベストな選択になるのかなと信じています。

 

かなり概念的な方向に行ってしまったのですが、「大いなる歴史を前に、人間は無力である」とか「過去に対する意味づけを変える」とかの考えについては、いつかエピソード交えて書こうかなと思います。

大いなる歴史を前には、小さな恥はかき捨てですので、今日もいっぱい失敗しながら働いていこうと思います。 

 

『マルチの子』(西尾潤、2021)

保険屋時代、ちょうどマルチ関係で色々あったときに書店で出会い、手に取った本です。

 

主人公の女性はよくいそうな大人しく真面目な人なのですが、"マルチ商法"の世界に居場所を求め、成長を実感し、壊れていく様を描いた小説です。はじめに属しているネットワークビジネスの会社は、現代社会でいうかつてのジャパンライフのような会社で、磁気が身体に作用するマットレスを売っているんですが、最終的に仮想通貨のいわゆる"ハメコミ"のような上場詐欺の商売に手を出し崩壊していくストーリーです。

保険屋という商売も、ネットワークビジネス的な側面があって、ある一定額の売上を達成するととれるタイトルという"名誉"のために、自爆営業をしたり、田舎の親族に頭を下げに行く様子を思い出します。人間はお金なんかよりも"名誉"というニンジンがあれば、壊れるまで動けるんだなと、その世界にいくとわかるんですが、それを小説としてリアリティのある追体験ができる作品でした。

 

この本を読んで思い出すのは、某健康食品系のネットワークビジネスとの関わりです。色々あってそれを生業としている人と知り合ったのですが、肌がキレイでやたら目のキラキラしたデブだなと思った記憶です。親切ですし、サービス精神旺盛で"良い人"ではあります。私はかなり性格が悪いのと、営業マン・文学青年的な人間への興味から、その人の裏に何かあるなと嗅覚が働き、本質を知りたいなと思いました。しかし本質に迫る質問には、フィルターを通したキレイな言葉でしか返さない、「食えない人だな」と感じた第一印象でした。そんなこんなで薄くLINEでメッセージのやり取りをしばらくしていたのですが、営業先の近くでホームパーティーをやっていると聞き、たまには誘いに乗ろうと思って参加しました。想像通りの会で、ご飯は美味しかったなと覚えています。主催の彼から、感想を聞かれて「今日来てたあの子がかわいいですね」みたいな軽口を叩いて帰ろうとしていたのですが、「じゃあセッティングするから紹介するよ」と返し刀で切り込まれてしまいました。篠崎愛に似てかわいい子だったのですが、「彼女も飲みたいって言ってるよ、お酒好きな子で」と追い打ちをかけられ、飲みに行くことになってしまいました。彼と篠崎愛似の彼女と、赤羽で飲んだのですが、本当に楽しかったです。彼は全部奢ってくれて、終電逃すくらいまで盛り上げて直前で帰るという最高のお膳立てをしてくれました。その飲み会で知ったのは、彼女はネットワーク関係の人ではなく、飲み会大好きです出会いを求めている幼稚園の先生らしく、私は酔っ払ったふりをして甘えていた気もしますし、とりあえず楽しい夜でした。そんな弱みを握るに握られ、借りを大いに作ってしまったのち、十数万円の浄水器を買い、今でも私はその浄水器を通った水を摂取しています。ネットワークビジネスの彼ではなく、彼女にやられたなぁと完敗した一件でした。彼女は『マルチの子』ではなかったんですが、かわいい子に営業受けたら敵わないなというか、たぶん女性に弱い自分が好きなんだと思います。江戸っ子に憧れがあって、江戸っ子はたぶん喧嘩っ早くて、宵越しの銭は持たなくて、そのうえ女性に弱いイメージなんです。本当に自分が愚かだなとは常々思うんですが、今日も濾過された水を飲んで仕事に向かおうと思います。

 

 

『コンビニ人間』(村田沙耶香、2018)

芥川賞受賞作品で、当時書店で見つけタイトルに惹かれて出会った本です。

学生時代からのコンビニバイトを続けているフリーターの女性が主人公。『コンビニ人間』の名前の通り、コンビニバイトで求められる役割をインストールし、いつしかそれが生き甲斐というか人間として求められる役割のようになった女性の話です。

 

読んだときは衝撃で、自分や周りの人間のなかにある、自分ですら気づいていない要素を、徹底的に類型化した形で示しているものだなと感じました。人間誰しもワーカーホリック的な要素があると私は考えていて、データとしても残業時間が増えるほど幸福度は下がるものの、60時間を超えると幸福度が増えていくといわれています。

 

私もワーカーホリックというか、働くことで継続的に与えられる義務と、義務を全うすることで得られる金銭的・心理的な報酬、それがリズムとなり心地よく感じる気持ちに共感を覚えます。イメージとしては、『オール・ザット・ジャズ』という映画の主人公のボブ・フォッシーに近いです。朝起きるとカセットテープを起動しヴィヴァルディを流し、タバコを吸いながらシャワーを浴び、顔を洗い歯磨きをした後、尋常じゃないほどのアンフェタミンを飲んで目薬をさし、鏡に向かって「イッツショータイム」といって一日が始まる。求められる"天才振付師ボブ・フォッシーという役割をセットし、破天荒な一日が始まる、そんな様子がカッコよくて、本当に好きです。中二病全盛期の大学一年生の頃は、ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」を流して朝のルーティンをやっていたことを思い出します。"金子"という男に求められる役割を、勝手に思い込んで設定し、スイッチをいれていました。酒癖は悪いですが、タバコも薬もやらないし、女性関係も派手ではないんですが、やっぱりボブ・フォッシーはカッコよくて、破天荒に生きたいなとときたま思うのです。社会人になって大学の頃の彼女と別れた店は、荒木町の「オール・ザット・ジャズ」というバーで、あれから2年くらい経って、やっと中二病寛解し、破天荒"金子"への憧れは眠ってくれたように思えます。

 

コンビニ人間』を読んで思い出したのはそんな思い出です。人間誰しも求められる役割に苦しみを感じる一方で、本作の主人公のように心地よさや生き甲斐を感じる面があります。ただその求められる役割というのも、自分が勝手に思い込んでいるもので、他人は自分に対して自分が想像するほどには期待をしていないし、興味もないと、最近思うのです。久しぶりに読むと、そんな気付きがあったなと思うのです。