失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『夏草の賦』(司馬遼太郎、1968)

長曾我部元親の一生を描いた歴史小説で、小学生の頃に読んで虜になった本です。父は司馬遼太郎が好きだったのですが、私は当時あまり司馬遼太郎が好きではなく、祖母が司馬遼太郎アンチと知り、この感覚が私だけでなかったと知ったのは、少し嬉しかったです。なんで私が司馬遼太郎の小説があまり好きではないかというと、作者の取材エピソードや書いている現在時点からの意見が散りばめられているからです。小中学生時代私には、この行為が没入感を損なうもので、「粋でないな」と感じたものです。そんなぷちアンチのですエピソードを持つ私ですが、『夏草の賦』は本当に大好きで、久しぶりに古書店で手にとって、色々な思い出が蘇ってきました。

 

本作は戦国時代の土佐の領主、長曾我部元親の一生を描いた作品です。織田信長との権謀術数による協力・敵対の立ち回り、豊臣秀吉の軍門に下り圧倒的な戦力で九州平定に携わる様子、どれをとってもカッコよいのが長曾我部元親です。カッコよさの源泉は、戦国武将としての力強さに加え、知的で鋭い内省的な面があると思っています。そしてもう一つの面として、非常に人間らしいというか等身大である面が、人を惹きつけるのだと思います。豊臣秀吉の軍門に下り、牙を抜かれたようなセカンドライフを送るようになります。それでもなお才覚は衰えず、跡継ぎとなる長男に目にかけて生きていくのですが、その長男を失います。それから生き甲斐を失った元親は亡くなり、天下分け目の関ヶ原合戦となるのですが、当主盛親は判断を誤って西軍についたがために、お家おとりつぶしとなり、長曾我部家は歴史から消滅します。

 

そもそもストーリーやキャラクターの魅力もあると思うのですが、私はこの作品と司馬遼太郎の文体、つまりときどき現代社会からの俯瞰に引き戻すようなエピソードの挿入が非常にマッチしているのだと思います。当人たちには悲劇ではあるのだけれど、大いなる歴史の流れのなかで翻弄されることは、どこか俯瞰でみると滑稽というか他人事で、少しの同情と切なさの先に美しさを感じる。そんな小説です。似た感覚として、『子午線の祀り』という舞台を大学生の頃に観たときと同じ種類の感動を味わいました。野村萬斎さん演出・出演、世田谷パブリックシアターにて上演された舞台です。平家物語を描いた作品なのですが、セリフが平家物語のように削ぎ落とされ、身体表現も能のようにミニマムで、まさに引き算の芸術である舞台なのですが、冒頭と最後に異質なナレーションが入ります。そのナレーションは、位置と時間と結末を淡々と告げる天の声です。あたかも全て決められた運命に沿って動く人間を観察するような冷静さ・突き放した態度が、そこには現れていたように思えます。この舞台を観た際、感動してしばらく立たないで噛み締めていたことを思い出しますし、この舞台や野村萬斎さんについて沢山語りたいところではあるのですが、『夏草の賦』との共通項は「大いなる歴史を前に人間は無力である」というところにあると思います。

 

「大いなる歴史を前に人間は無力である」というのは私の中に刻まれた思想ではあると思うのですが、言葉として受け入れたのは高校生の頃で、三島由紀夫豊饒の海四部作の第一部『春の雪』の清顕と本多の会話のシーンで衝撃を受けたのがきっかけです。『夏草の賦』を読んでいた小学生の頃はそんな概念として捉えてはいなかったのですが、いま思うと原点はここにあると気付かされた次第です。

 

運命は変えられないというか、大いなる歴史の前では思い通りにいかないものではあると、いまだに考えてはいるのですけれども、過去に対しては自分の解釈や意味付けを変えることで、未来に対しては私の行動が絶対に誰かに影響すると信じて行動することで、何か良い結果が出るというか、現在を生きる私にとってはベストな選択になるのかなと信じています。

 

かなり概念的な方向に行ってしまったのですが、「大いなる歴史を前に、人間は無力である」とか「過去に対する意味づけを変える」とかの考えについては、いつかエピソード交えて書こうかなと思います。

大いなる歴史を前には、小さな恥はかき捨てですので、今日もいっぱい失敗しながら働いていこうと思います。