失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『STONER』(ジョン・ウィリアムズ、東江一紀訳、2014)

私ははてなブログのサジェストでおすすめされるブログをしばしば巡回しておりまして、その際におすすめに上がっており、手に取った本です。

penginsengen.hatenablog.com

 

かなり私の中に刻み込まれた本で、大当たりの作品でした。

英文学科の大学講師ウィリアム・ストーナーの一生を描いた作品ですが、これといった大きな事件がある訳でもなく、わかりやすい共感を生む訳でもなく。主人公は、自分の信念に基づいた頑固さを持つ男です。しかし彼にとって自分の人生はどこか他人事であるようで。太陽が昇りまた沈む、その繰り返しのなかで季節が変わり、年月が過ぎる。彼は月日を感じるが如く自分を非常に観察的にとらえつつ、感情面に立ち入るような内省はしない人です。

農家の後継ぎの道を捨て文学の道にすすんだこと、初恋と結婚、本当の恋、娘のこと。全てが他人事のようで、受け入れもせず拒みもせず、忍耐なのか不感症なのか。そんな人生です。こう書くと面白くなさそうですが、感情の微細な変化を忍耐によって耐えていたものを、行動や言動に表すことによって決定的な人間関係の対立を生んでしまう。そんな人間関係の儚さを追いつつ、感情の微細な変化を表す文章を味わう小説で、最高に良かったです。

 

あとがきで知りましたが、著者はアメリカで本作を遺作としてガンで亡くなっています。本国アメリカでは佳作といった評価で知る人ぞ知るという作品だったそうですが、約10年を経て、英国で大ブームを巻き起こし、いま日本で少しずつファンを増やしているそうです。著者とウィリアム・ストーナーの人生が重なるようで、運命を感じます。

 

17ページの冒頭間もないシーンで、心つかまれました。

農家の生まれのストーナー、農学を専攻する傍らで初めて英文学の講義を受け、シェイクスピアソネットを初めて読みます。衝撃から講師の言葉も耳に入らず、茫然とするシーンです。

「かの時節、わたしの中にきみが見るのは

黄色い葉が幾ひら、あるかなきかのさまで

寒さに震える枝先に散り残り、」

周りの学生たちがうめいたりぼやき合ったりしながら席を立ち、退室するのを、ストーナーは気に留めなかった。誰もいなくなってから数分間、じっと坐ったまま、目の前の狭い板張りの通路を見据える。見も知らぬ無数の学生たちのせわしない足に踏まれて、ニスの膜は剥がれてしまっていた。自分の足を床に滑らせてみると、靴底のこすれる乾いた音がして、ごつごつした感触が足の裏に伝わってきた。それから、ストーナーも立ち上がり、ゆっくりと教室をあとにした。

こういう感覚あるよな。忘れていた感覚を思い出しました。

放心というか、自分がどんな感情なのか不明だが、とにかく衝撃を受けている。身体に力は入らず立つ気も起きないが、感覚は鋭敏で、普段は気にも留めない周囲の事物が、強烈な影響力を伴って干渉してくるような。そんな感覚を思い出しました。

 

大学2年の頃、新国立劇場に『フリック』という作品を観にいきました。

フリック | 新国立劇場 演劇

前年の冬に初めて新国立に行ってオペラの『ラボエーム』を観た感動から、ストレートプレイ、つまりミュージカルでもオペラでもバレエでもない普通のお芝居を観に行こうと思い、「ピュリッツァー賞受賞なら面白いだろう。学割で安いし。」くらいの気持ちでで観に行ったのを覚えています。

2回目の新国立は慣れたもので、初めて訪れた際の高揚感は薄れていました。初台という街は、新国立とオペラシティ以外は閑静な住宅街で、首都高が頭上を分断する物悲しい街です。夜の公演だったので、近くを散歩しながらそんなことを考えていました。開場し入ると、舞台はやや空いており、7割くらいの埋まり具合でした。

舞台が始まると退屈な舞台で、映画館のバイト3人の会話劇で、なんともない一日が始まり暗転とともに終わり、また始まる、そんなやり取りが一時間以上繰り広げられていました。一幕が終え、光が灯ると、寝起きの人がちらほら、帰り支度をする人も多くいました。私は田舎から高い交通費を払ってきているので、寝る訳にも帰る訳にもいかないなと思い、コーヒーを買って二幕に備えました。

ストーリーとしては、アナログフィルムの映画館でのバイト終わりの会話だけで構成されます。白人のフリーター男性と奨学金の支払いに苦しむ白人女性が働く先に、映画オタクの富裕層の黒人男性が新人として加わり、色々あるが実質なにも起きない会話劇が一幕でした。

二幕は、映画館がアナログフィルムの取り扱いを辞め、デジタルフィルムに切り替えるところから話が動いていきます。仕事量が減り、給料も当然減る訳ですが、フリーターの2人はそこに怒りを覚えます。しかし映画オタクは稼ぐためにバイトをしている訳ではないので、フィルムの味が消えることに怒りを覚えます。そこまで大きな対立構造がいきなり表面化する訳ではないのですが、貧富の差や人種の差、それに伴う理解の困難さのようなものが徐々に会話に表れるようになります。最後は今まで仲良くやってきた3人は、真に分かり合えることはないなということを理解したような会話がされて終わります。

うす暗い小劇場の客電が付く。元々埋まっておらず、幕間で帰った人もいる客席は人もまばらで。前の客席も空席でしたが、背もたれをこうして改めてみるとしっかりした造りで、硬くて坐りにくいのでお尻が痛いなという感覚を忘れていたことを思い出して。そういえばおなかも空いているし、のども乾いている。

でもそんなことより、小学生の頃に仲良くしていた友人も、変わらず元気にしているだろうかなんて考えて。ただきっと今年の成人式で会うときには、当然昔のように会話することなんてできないだろうなとも思うし。とりあえず今日の舞台は本当に良かったな、何が良かったのか言葉にできないけど。

そんなことを思いながら、人波がどんどん出口に歩いていくのに置いて行かれないように客席を出て。電車代を節約するために初台から新宿まで歩きながら、いろいろ考えて、余韻に酔っていた気がします。

 

こう書くとこの舞台も面白くなさそうなんですが、言いたかったことはこれを観終えた私は、初めてシェイクスピアソネットに心奪われたストーナー青年と同じだなというところで。作品のテーマというか底に流れる思想や方法論は似ている気がして、「人と人って真に分かり合うことはないよね」という思想を、とりとめもない会話などから感情の真意や変化を追うなかで表面化させていく方法だなと考えました。
まさに『失われた時を求めて』の無意識的記憶で、本自伝ブログにふさわしいテーマとなったなと感じます。忘れていた感情を思い出してくれた一冊でした。

proust-masayuki.hatenablog.jp

 

追記

フリックの原作も買って読もうと思って購入しました。

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