失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『滴り落ちる時計たちの波紋』(平野啓一郎、2004)

中二病時代、三島由紀夫旧字体で読まなければいけないという原理主義的な思想のなかで『日蝕』(平野啓一郎、2002)に出会いました。美しい文章だなと思いつつ、話は難しかったなという薄い記憶です。

 

平野啓一郎という名を見て、そんな記憶を思い出しながら手に取りました。

短編集でそのなかでも「最後の変身」は印象的な作品でした。カフカの『変身』のオマージュ要素がありつつ、横書きで独白調の作品です。引きこもりの主人公が、人間の内面と外面、役割としての外面の役割について熱弁する作品です。

 

最近考えていた話と似たテーマのように思えて、本当の自分と偽りの自分(本作で言う”役割”)というところを考えてて。立場や環境が人を作るともよく言うけれど、立場が与えられない・居場所がない人の辛さ。これを癒すのは他者からの承認なんだろうけど、これを獲得するのは自分の力でしかなくて、ただその自分の力というのは役割に適合するように設えられた演劇的な仮面の助けを借りたもので。

世の中の人間は、どいつもこいつも「見抜かれ」たがっている。何だっていいんだ。ただ、自分の姿に表れてさえいなければ、それだけで十分に胸をときめかすだろう!もし心当たりがあるならば、本当の自分というものが、やはり確かに存在するのだと安心するのだろう。心当たりがなければ、それを、自分でも気づいていない、新しい可能性と信じて興奮するのだ。

authenticityという言葉が流行っていますが、「本当の自分」とか「自分らしさ」ってなんなんでしょうね。他人から与えられる役割でしか自分らしさは作れない、『出口なし』の「地獄とは他人のことなんだ」のようなオチでしょうか。

 

こういうことを考えると結論が出ないし、疲れるものです。

どうぶつ占いでいうと、私の本質は”母性豊かなコアラ”だそうです。適当なことを言っておくと当てはまることが一つや二つあるし、人間両面併せ持つもので見方変えれば当てはまるものなのかなと思います。

自分らしいかはわかりませんが、自分くらい自分を愛して労ってやりたいもので、同じ熱量を持って人に向き合いたいものです。