芥川賞受賞作品、現代に求められる小説。ムカつく小説だなと思いつつ、共感してしまうことに空恐ろしさも感じる小説でした。
主要な登場人物は3人で、優秀な若手男性社員の二谷、身体が弱い芦川、強気のキャリアウーマン風の若手の押尾。職場の微妙な人間関係のバランスを描きながら、現代社会に生きる我々に刷り込まれている価値観を見せてくれたように感じます。
私の一貫した人生のテーマで、”全ての人が生きやすい世の中であってほしい”という考えがあります。
こういう仕事の分量が平準化されていない不満が弱者に向くという場面に出くわすと、私は苛立ちというか悲しさを覚えるのです。皆が視点を変えれば、誰もが生きやすい世の中になるのになと思うのです。
”仕事ができる”ということってなんなんだろうといつも思うのです。私は目が悪いですが、眼鏡やコンタクトレンズといった視力矯正器具のお陰で生きていけます。しかし明治維新前の世の中だったら、夜道で道を踏み外して死んでいると思います。不器用なので肉体労働は向いてないですし、いまの世の中だから求められやすく価格に還元しやすい能力だなと常々思うのです。
”仕事ができない”人と給料が同じなのは耐えられないという考えを以て、同僚に攻撃的な意識を持つのは認知が歪んでいると思うのです。経営者が給料を決める一般的なサラリーマン組織では、給料が同じなのは当然のことですし、代替可能なくらいまで切り分けられた簡単なことを適当に処理していれば、お金が貰えて飯も食える、楽な世の中なのです。その細切れの作業について、より早くこなせようが、より多くの工程ができようが、大差はないのです。
命を賭してマンモスを狩ったり、凶作に怯えながら365日畑を耕さなくても、楽に生きられるのです。最高じゃないですか。
給料がゼロになることもない。
しかもここ5年位で人間社会を切り取るともっと最高で、いまは会社に属して給料貰いながらながら、好きにサイドビジネスやっていいという時代になりつつあるのです。
そんな余暇の多い楽な世の中だけれども、限りある時間の中で、どうやって人に役立ったり、社会を良くしようと頭と身体を追い込むのが幸せなんじゃないかなと思うのです。
会社の経営陣や同僚の評価を気にしすぎて、さらにそれを主観というフィルターを一枚通したうえで認知し、一喜一憂するという無意味な行為止めませんか?
あなたはその功利主義的な感性のフィルターを以て、「この人はある能力が一定水準を超えており、自分にとってメリットがあるかもしれない」という目を友達やお客様に向けますか?もっというと自分に向けますか?
同じ組織にいるだけの同僚、それを一皮向いて心で会話していないんじゃないですか?
「この人はなんのために仕事をするんだろう?」
自分の渇きを癒やすためかもしれないし、家族を食わすためかもしれないし、世の中にインパクトを与えたいのかもしれないし、面白いからかもしれないし、暇だからかもしれないし。想像できてますか?
原始時代まで遡って大熱弁し煙に巻いて、あなたの能力が不要な能力であると達観して言っている訳ではないのです。自分の認知の歪みに目を向けて、歪みを以てして他者に攻撃を向ける浅ましさを自覚して、より生きやすい世の中にしたいのです。
カラマーゾフの大審問官くらい熱く語った気がします。ただ最近、たぶん私って優しくはないなと気付きまして。
C.O.S.Aの「1AM in Asahikawa」という曲に
”俺は無慈悲なヤツ。愛はあるけど情はないのさ。”
というリリックから感じたことで。
私はただ世界が美しくあってほしいだけな気がしてて。困った人が居たら手を差し伸べるけれど、人生辛いのは変わらないし、世の中は変わらないし、結局自分で闘っていくしかなくて。
一人で食べるごはんは味気ないし面倒だけれど、「あいつは今何してるのかな?」「あいつは元気にしてるかな?」と誰かを想ったのも束の間、お酒を入れてYou Tubeでも見てれば眠くなって。
気付くとまた明日が始まります。