失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『礼讃』(木嶋佳苗、2015)

私は凶悪事件や少年犯罪に対して、昔から興味がありつつも、でも犯罪者心理を紐解いて共通項を見つけたり育ちの異常性を明らかにするようなワイドショー的な論調は嫌いだし、かと言って同情して更生や再発防止を議論するのも好きではないです。純粋に「どうしてそんなことしたん?」「どんな感情だったの?」ということを知りたくて、ワイドショーのキャスターや新聞記事の解釈が入りこまない情報が知りたいのです。個人の動機や感情はあくまで主観で、その主観に歪んだ認知があるとはいえ、客観的な解釈は求めておりません。

本社は連続殺人事件の加害者である木嶋佳苗の自伝小説です。感想としては、とにかく長くて、読むのが苦痛だなということに尽きるのですが、「木嶋佳苗には、世の中がこんな風に見えているんだな」と感じられることは面白かったです。とにかく食べ物やお金・豪華な暮らしに対する憧れや執着がすごく、描写がリアルで生々しくすごいなと感じます。そして動機にも繋がるような自身のモテや性的魅力に対する記述も長くて、生々しくてグロテスクで、確かにそんな風に世界が見えているのだなと感心しました。そんな認知であるのであれば、「自身の魅力や対価について、相手から正当な対価を受け取っていただけだ」という主張が出てきますし、「自分でも不思議だが、そのこと(事件当時のこと)に対する記憶がないのだ」などという言葉が出てくるのだと思います。

私自身の人生振り返ると、病的なウソつきな人間というものはまあまあの割合で居たことを思い出します。「ウソつきはなんでウソをつくんだろうな?」ということについて、保険の仕事をして、多くの人と接し、個人事業主として人間についてずっと考えているなかで、ある一つの答えに至りました。それは、「人間は自分を守るために言い訳を考えたり、嘘をつくことがうまい生き物である」という答えです。「高くて払えない」「忙しい」というのは嘘というか、言い換えると「あなたと商品にその金額を払う価値はない」「あなたに割く時間はない」という心理をオブラートに包んだものです。その言葉を言い訳や嘘であると自己で認識して優しさとして発している場合もあるし、認識しないまま恐怖心や不信感から営業マンを遠ざける言葉として発しているケースもありますが。子供も壊れたおもちゃを隠したり、怒られないような言い訳をしますが、大人も大して変わらない気がします。社会性と呼ばれるルールを学んだり、損得勘定がもっと精緻にできるようになったから、敢えてウソをつかない選択をできるだけで。

ともかく人間は言い訳をし嘘をつく生き物ですが、病的なウソつきというのは、自分に自信がなかったりで、自分を守ろうとしたり、守るにはまず攻めよ的な発想で人を攻撃するから、ウソが口をついて出てくるのでしょう。

人生で出逢った色んなウソつきを思い出して、笑えるのもあれば、笑えないくらい不快なものもあって、なんかわざわざ書き起しても何も生まない気がするのでやめておきます。

ともあれ、そんな私自身もウソつきであるなという自覚はあって、話を面白くなるであろうと盛って話し続けているうちに、話の原型を留めていないトークを事実だと認識していることも多いです。

きっと人間社会で病的なウソつきは、法的な規範から逸脱したり、会社組織などに居られないから、どんどん排除されてしまうのでしょう。彼らは自分自身の中では本当のことであっても、他人からみたらウソでしかないし、当人のなかでどんどん歪められてしまっているのでしょう。ウソつきは、飲み屋に行って適当なことを話して満足すればいいのになと、そうすれば世の中平和になるのになと思うのです。ただ人間欲深いし、そうもいかないのだろうし、難しいものです。