失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル、1946)

運命に感謝しています。だって私をこんなひどい目にあわせてくれたんですもの

以前何不自由なく暮らしていたとき、私はすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、真面目に考えたことがありませんでした

※2020年8月13日のメモより

読んだ当時も衝撃的でしたが、記憶の底に沈んで忘れておりました。仕事の合間の六本木、文喫という面白いおしゃれな本屋兼カフェを見つけてぶらぶらしているときに再会して手に取った次第です。

文喫:https://bunkitsu.jp/

精神科医である著者が、ナチス強制収容所での極限の生活を送る中で、医師・心理学者として実践的に学んだというか哲学的な気付きが記されています。強制収容所での労働や仲間の処刑などの壮絶なシーンも生々しく描写されるので、読むのが辛くはあるのですが、それを受けて気付き語る著者の言葉は聖書の言葉のようで。この本の気づきの部分にフィーチャーして学ぶべきだとか、事にフィーチャーして歴史を繰り返してはならないと言うのは、なんか違う、それだと陳腐な感じがします。

かつて私は、二択に迷ったときは自分が嫌だと思う選択をすることを自分に課していました。何故なら苦痛を乗り越えた先に喜びだったり、成長だったりがあると信じていたからです。私の苦しみは、著者の苦悩に比べたら百万分の一以下のものでありますが、そんな考えに説得力を持たせるとには十分なものでした。仏陀でもイエスでもない一人の人間、私と同じような市井の人間でも、そんな極地というか立派な人間になりたいなと思っているなかで、すごく感動したことを思い出しました。

いまでは進んで苦労をするときに、自暴自棄になる癖があるなということを認識し、修正しながら生きています。

他者の歓喜を自らの喜びとし、他者の苦悩も自らの苦しみとする。そんな人間で在りたいものです。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/14_frankl/index.html

《その他当時のメモ》

・内的時間

ビスマルク:人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれから本番だ、と思っているうちに終わってしまう

強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、私の真価を発揮できるときがくるはずだと信じていた。

けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいはごく少数の人々のように内面的な勝利を勝ち得たか、ということに

・苦悩

苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることを辞める(スピノザ

・愛

わたしはときおり空を仰いだ。 星の輝きが薄れ、 分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。 今この瞬間、わたしの心は ある人の面影に占められていた。

精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、 以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。 わたしは妻と語っているような気がした。 妻が答えるのが聞こえ、 微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。 妻がここにいようがいまいが、 その微笑みは、たった今昇ってきた 太陽よりも明るくわたしを照らした。そのとき、ある思いがわたしを貫いた。 何人もの思想家がその生涯の果てに たどり着いた真実、 何人もの詩人がうたいあげた真実が、 生まれてはじめて骨身にしみたのだ。

愛は人が人として到達できる 究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、 人間が詩や思想や信仰をつうじて 表明すべきこととしてきた、 究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること。

人は、この世にもはやなにも 残されていなくとも、心の奥底で 愛する人の面影に思いをこらせば、 ほんのいっときにせよ 私服の境地になれるということを、 わたしは理解したのだ。そしてわたしは知り、学んだのだ。 愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、 愛する妻の精神的な存在、 つまり(哲学者のいう) 「本質(ゾーザイン)」に深くかかわっている、 ということを。愛する妻の「現存(ダーザイン)」、 わたしとともにあること、 肉体が存在すること、 生きてあることは、 まったく問題の外なのだ。

・美

被収容者の内面が深まると、 たまに芸術や自然に接することが 強烈な経験となった。この経験は、世界や しんそこ恐怖すべき状況を 忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。あるいはまた、ある夕べ、 わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、 スープの碗を手に、 居住棟のむき出しの土の床に へたりこんでいたときに、 突然、仲間がとびこんで、 疲れていようが寒かろうが、 とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを 見逃させまいという、 ただそれだけのために。そしてわたしたちは、 暗く燃え上がる雲におおわれた西の空をながめ、 地平線いっぱいに鉄(くろがね)色から 血のように輝く赤まで、 この世のものとも思えない色合いで たえずさまざまに幻想的な 形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、 収容所の殺伐とした灰色の棟の群れと ぬかるんだ点呼場が広がり、 水たまりは燃えるような天空を映していた。わたしたちは数分間、 言葉もなく心を奪われていたが、 だれかが言った。

「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

・生きる

わたしたちが生きることから なにを期待するかではなく、 むしろひたすら、生きることが わたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、 ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。生きるとはつまり、生きることの 問いに正しく答える義務、 生きることが各人に課す課題を果たす義務、 時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。