失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『失われた時を求めて』①(マルセル・プルースト、1919)

昨年末は青春18きっぷの旅に出ていて、甲府から糸魚川糸魚川から松本、松本から松戸、松戸から勝田みたいな形で、移動を楽しみながら旧知の人たちに会いに行くような旅でした。その移動の合間は読書したり、久しぶりに知り合いに連絡を取ったりをしていたのですが、『失われた時を求めて』をやっと第二篇まで読み終えたところでございます。ブログを始めるインスピレーションをもらった小説ですが、心が整っているとき・文学部モードの時しか読めないし、しっかり味わいたいのもあって遅々として進んでおります。かなり好きなシーンがいくつもあるのですが、そのなかで、第二篇「花咲く乙女たち」より語り手の”私”とヴィルパリジス夫人の馬車でのシーンを、自分のことと交差させながらいつもより自伝小説っぽく書こうかなと思います。

「失われた時を求めて」どの訳が読みやすいかをくらべてみました 長編小説の読了に挑戦 - bluesoyaji’s blog

スケジュールの関係で新幹線を利用し糸魚川に到着しました。帰省ラッシュで超満員の新幹線ではありましたが、降りる人は私のほかに数名しかおらず、開通して間もない装いの立派な駅舎にぽつねんと立たされることになりました。トンネルを越えるとそこは雪国だったなんて聞いたことはありましたが、雪はなく糸魚川の空は暖かい曇天。お昼時にもかかわらず暗く重たい雲に包まれた空でしたが、隙間から覗く太陽は正午近いにも関わらず斜に構えているようで、もう夜を迎え入れる支度をしているような、朝の青さの抜けきった黄色の光線がところどころに差しておりました。翡翠の街、糸魚川。観光客を迎えるというよりは、暮らす人はみな年越しの準備で街に出ていないようで、私以外は誰もいないそんな中を歩きながら、海にいこうと決めました。ヒスイ海岸という名前の通りの海で、青みがかったグリーンの荒れた海がそこにはありました。やはり私は日本海側には住めないなと行く度に思いますが、暗い曇天と底が黒い海、その前に立たされると深く内面に落ちていくようでどうもダメなのです。不安に駆られ振り返って街を眺めると、かつては立派だったと思われるホテルも、日本海の潮風と蔦に犯されもう立っていられないようでした。

糸魚川から離れたいなと思いつつ、大糸線で松本に向かうには電車の待ち時間がかなりあったので、隣駅の姫川駅まで歩くことにしました。姫川駅周辺は糸魚川駅以上に文字通り誰もいない街で、駅前の大きな病院もかなり前に閉業しており廃墟となっていました。一度火災にあったようで、黒く煤でまみれた大病院ですが、封鎖された駐車場に車いすがそのまま残されておりました。そんな中を歩いていると俄かに大粒の雹が降り始めました。

こんな街には長くいられないなと思いつ、無人駅の休憩所でCHARAの「Swallowtail Butterfly」を聴きながら寒さと不安に耐えていました。大糸線の周りを活性化させようといったポスターが張られていましたが、それは難しいのではないかと思いました。千葉の暖かい海や空に慣れた私は、1週間もあの街にいると精神に異常をきたす気がします。霧の町ロンドンでは自殺率が高いように、日照時間と精神性というものはリンクするのだなと強く実感しました。そんなことを考えているとようやっとトンネルの奥から光が差し、電車がやってきました。

やっと暖かく少し安心できるところに落ち着けたことを喜びつつ、南小谷駅に向かいながら『失われた時を求めて』を読むことにしました。

第二篇「花咲く乙女たち」語り手の”私”とヴィルパリジス夫人とユディメニルの方に向かって下る馬車でのシーンに至りましたが、圧倒されてしまいました。”私”が「三本の木」を見つけるところから「それのみが真実であると思うもの、私を本当に幸福にしてくれたであろうと思うもの」を掴みかけて、掴めないというシーンなんですが、語るにはその前段に出てくる全て踏まえないといけず、要約難しいのであきらめることにします。惹起される記憶によって無限に時間と感情が展開されていく様子、現実の風景から過去の記憶や感情が再生され、現実の風景の移り変わりにともなって変化していく様が本当に美しいです。一部を引用してもわからないですが、備忘録を兼ねて書き記しておきます。(一部といってもかなり長いですが…)

車が進むにつれて、それらの木が三本とも、目に見えて近づいてきた。どこで、いままでに、それらを眺めたことがあったのか?そんなふうに小径のひらけるところは、コンブレ(筆者注:”私”が幼いころにバカンスで滞在したフランスの田舎町)のまわりにはどこにもなかった。ある年祖母と一緒に湯治に行ったドイツの田舎には、それらが思い出させるそんな風光のはいるべき余地がなおさらなかった。それは私の生活のまわりにあまりに遠い年月から出てきたので、それらをとりまく風景は、私の記憶から全く消失してしまって、読んだこともなかったと思う作品のなかに見出して、はっと驚くあのページのように、私の幼年時代の忘れられた書物のなかから、それだけが浮びあがっていると考えなくてはならないのだろうか?反対にまた、それらは、少なくとも私にとってはいつも同じ、あの夢の風景――私にとって、その風景の奇異な様相は、ゲルマントのほう(筆者注:名門貴族の家系、コンブレにある分かれ道の一方の道の先にある場所を指す)であんなに何度もやったように、見かけの背後に何か隠されていると予感されたそんな場所の神秘に到達しようとしたり、あるいはバルベック(筆者注:フランスの避暑地、身体の弱かった”私”はかつて空想のなかで羨望を伴ったイメージを膨らませていた)のように私の知りたいとかねてから望んでいてそれを知った日からすっかり浅薄に見えたそんな場所に、もう一度神秘を導き入れようと試みたりするために、私の払う覚醒中の努力の、睡眠中における客観化にほかならなかったのだけれども――そうした夢の風景に属しているにすぎないのではなかろうか?またそれらは、前夜に見た夢だのにすっかりうすれてしまって、はるか遠い昔の夢のような心地のするそんな夢から、面目を一新して浮き出してきた心像にすぎないのではなかろうか?あるいはまた、それらは私がいままでに全然見たことのない木々であって、かつてゲルマントのほうでそう感じたあの木々や草むらのように遠い過去と同様の曖昧なとらえがたい意味をその背後に隠しているために、ある新しい思想を深めるようにと私は促され、何かそれとも同じものを記憶のなかにさぐらねばならないという気がするのではなかろうか?あるいはまた思想などというものは何も隠されていないので、ただ私の視力の疲労から、時々空間に物が二重に見えるように、時間のなかにそれらが二重に見えるのであろうか?分らない。そうするうちにもそれらは私に近づいてきた。おそらく神秘的な幽霊の出現、魔女の、あるいはノヌル(北欧神話の女神)の輪舞なのだ、そしてその信託を私に告げているのだ。私はむしろそれらが、過去の幻影、私の幼年時代の親しい仲間、共通の追憶を喚び出す消え去った友人たちなのだ、と思った。亡霊のように、それらは、私と連れて行ってくれ、と私に頼んでいるような気がする。その素朴な、熱情的な身振りのなかに、愛されながら言葉を使う力を失ったひと、いいたいことが相手に通じない、相手も察してくれない、と感じるひとの、無力なくやしさを、私は読みとるのだった。やがて。とある四辻で、馬車は三本の木を見すてた。馬車は、私がそれのみ真実であると思うもの、私を本当に幸福にしてくれたであろうと思うものから、私を遠くに連れさってゆくのだった。その馬車は私の人生のコースに似ていた。

私は木々が必死の勢いでその腕を振りながら遠ざかってゆくのを見たが、それはこういっているようだった――お前が今日私たちから学ばなかったことは、いつまでも知らずじまいになるだろう。この道の奥から、努力してお前のところまで伸び上がろうとしたのに、そのままここに私たちを振りすててゆくなら、お前にもってきてやったお前自身の一部分は、永久に虚無に没してしまうだろう、と。なるほど、そののち、さきほど改めて感じたあの種の喜びと不安とを、ふたたび見出したとはいえ、そしてまた、ある夕べ――あまりにも遅く、しかもこんどは永久に――そうした種類の喜びと不安とに結びついたとはいえ、その代りに私は、それらの木からは、それらが何を私にもたらそうとしたのか、どこでそれらを見たことがあったのか、ついに知らずじまいとなった。馬車が別れ道にはいってから、それらの木に背を向け、それらを見るのをやめた私は、一方、ヴィルパリジス夫人(筆者注:ゲルマント公爵夫妻の叔母。語り手”私”の祖母とは、サクレ・クール(聖心女学院)時代の友人。)から、なぜそんなにぼんやり夢にふけったような顔をしているのかときかれたとき、あたかもいましがた、友人を失ったか、自分自身が死んだかのように、あるいは誰か個人を見捨てるか、何か神のようなものを無視するかしたかのように、悲しかった。

失われた時を求めてⅡ』(マルセル・プルースト井上究一郎訳、1974年、新潮社)pp.282-284

※強調はカネコが付けてます

失われた時を求めて』は本当に長くて難解だなと思うのですが、読み進めていくうちに全て無駄でなく、必要に伴って配置されていることが理解されてきて本当に感動します。そもそもこのシーン自体でも、前後も同じくらいの文量で同じようなこってりさで書かれているのは割愛していますが、それまでに語られてきたスワン家やゲルマント家に対して抱いた感情、祖母に抱いた感情、それらが時空を超えてリンクしていくのが気持ちがいいです。

私が感知したことはあっても言葉にせずに放置して忘れてしまっていたような感情を思い出させてくれたり、自分だけにしか感じていなかったと思うことを共有できる人を見つけた喜びを感じたり、そんなときに小説というのはいいなと思うのです。そのなかでもプルーストからは、「私の生活のまわりにあまりに遠い年月から出てきたので、それらをとりまく風景は、私の記憶から全く消失してしまって、読んだこともなかったと思う作品のなかに見出して、はっと驚くあのページのように」自分が全く経験したことのない小説での出来事から、自分の全く忘れていた過去のことを思い出すときの心地よさを教わりました。そして、その思い出した過去を言葉にすることで今の自分をより深く知ることができ、人と共有することで私自身も楽しいし、その人自身にも同じように言葉にできていなかった感情や感覚を知ってもらうことができるのが素晴らしいなと思うのです。第二篇からは祖母と看病のシーンと、ジルベルトとの恋のシーンも好きで、それもいつか記事にまとめたいなと思います。

そんな素晴らしい読書体験の興奮に震えたのち、色々と自分事として考えていると、終点の乗り換え駅の南小谷駅に到着しました。田舎の電車ならではの開閉式のボタンは終点駅では機能せず、扉は一斉に開かれます。寒さが私を現実の感覚に引き戻すと、そこは雪国でした。雪降る何もない駅でしたが、姫川駅とは違って、太陽と雲は私の慣れ親しんだもので、やっと心落ち着いた気がしました。

 

《旅行の写真》

※私は古書店で全巻そろってるものを購入したら、絶版の新潮社の井上訳でした。一番新しい訳は岩波版らしいです。