失われた時を求めて

読書に始まる自伝的ブログ

『堕落論』(坂口安吾、1946)

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 

2022年末は、青春18きっぷの旅に出たり、恋をしたり、本を読んだり、仕事や人生について色々考えたり、なんか満ちた時間を過ごしていました。しかし1月1日くらいから堕落した生活を送ってしまい、酒を飲んで実家の空気を吸う中で眠くなってしまい、一日のほとんどを寝て過ごしてしまいました。寝ながら「ナマケモノは一日の大半を寝て過ごしているらしいな」なんて思いながら、ナマケモノの動画をずっと見ていました。ナマケモノは本当にかわいい生き物で、死ぬまでにはいつかコスタリカのスロース・サンクチュアリに行ってナマケモノに会おうと決意しました。怠け者がナマケモノYouTubeを観て、そんな元旦でした。

youtu.be

Sloth Sanctuary of Costa Rica:https://www.slothsanctuary.com/

ナマケモノも自由を目指して逃走したり、必死に恋をしたり、お客さんを喜ばせたり、そんなことをしているのに私はなにもしていないななんて、そんなことを思いながら、ブログでも書こうかなというスイッチを入れる訳です。

 

そんななかでいまの私にピッタリの本を思い出して手に取りました。

図書カード:堕落論

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、落ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くにも日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾疎開せずに空襲で焼かれる東京をその目で見ていたそうです。タイトルから『堕落論』というとサブカル的な逃避のイメージが付きまといますが、戦後間もない時期の力強さというか「堕落」という言葉が全く違う意味で使われていることが分かります。

私が去年考えていた自分の言葉で再構築するというか、理解していくと下記のようになります。

自分自身の奥深くに眠る本質というか本音というか、内面に深く堕ちていって自分自身の弱くぶよぶよしたやらかい部分を直視する。その弱さ、自身の観念や美に向かう弱さを一度殺しきる。観念的な美と現実の矛盾を嘘で覆って防御する癖を認め、泥臭い醜い現実と向き合い、統合を目指す中でもがいていく。そんななかで正しく生きられるよというメッセージだと理解しました。

ナマケモノ式の堕落も、坂口式の堕落も、徹底的にやりきった2022年だったように振り返ります。よく「私はあえてしゃがんでいるんだ、次なる飛躍のために」みたいな論法やマインドセットがありますが、それを流用させてもらって、私自身も2022年にしゃがんだ以上に飛躍していく2023年にしていこうと決意しました。

 

<2023年のテーマ>

関係する全ての人が生きやすい世の中にする

・全ての悩み事は人間同士の関係及び自分自身との関係に起因する。

・自分自身との関係とは、感情・情緒と論理的な自己認識の統合である。

・相続の分野と仲間の悩み解決の分野に注力する。

今週のお題わたしの2022年・2023年にやりたいこと